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過去演奏会のパンフ掲載のコンテンツ。曲目紹介(プログラムノート)、エッセイなど。

ドイツレクイエム特集

20回記念演奏会でドイツレクイエムに取り組むにあたり、ドイツレクイエムの対訳を"ブルーメンのオリジナル"として取り組んできました。 少しでも曲への理解を深めるため、団員向けに逐語訳・聖書解説を用意し、少しでもいい演奏ができるよう、また20回の記念になる企画を、ということで、団員に配布した内容をHPでも紹介させていただきます。
内容的には個人的な解釈の部分もありますので、ご了承ください。

 

私とブラームス6(第20回特別)

とうとう回ってきてしまった私とブラームスのリレーエッセイ。
記念すべき20回の演奏会で筆を持たせてもらえるということは、いわゆる「古株」になってしまった私に何かブルーメンとブラームス、そんなテーマで語れ、ということか。 実はブルーメンの始まりは、今回取り上げたドイツ・レクイエムに深く関係している。
 JMJ(通称ジュネス)というNHKがスポンサーとなっている大学生を中心とした寄せ集めのオーケストラが平成3年のコンサートで「ドイツ・レクイエム」を演奏した。
ブルーメンの創始者であるオーボエ奏者は、メンバーを集める際に、そのコンサートで一緒になったメンバー何人かに声をかけたのだ。
 あれから10年。当初から参加していた私としては20回記念でドイツ・レクイエムを演奏できることがとても感慨深い。

 さて、私とブラームスというテーマで語るとすると、私にとってブラームスの曲は大切な人との別れを思いださせることが多い。
 高校生の時、ピアノのレッスンで、ブラームスのラプソディの2番をやるからとブラームスのピアノ曲集を購入した。同じ本に入っていた3つの間奏曲をポロポロと弾いてみてとても衝撃を受けた。
ピアノの先生に「これを弾いてみたい」と勇気を振り絞って言ったが、「いい曲だけど、あなたにはまだ早いわねぇ。もっと年をとってから、弾いてみたら」とあっさり流され、とてもがっかりした。当時先生の家は自宅の目の前だったので、諦めきれず家で弾いていたら、次にレッスンに行ったとき「弾いていたのあなたね。」とニヤニヤされて気恥ずかしい思いをしたのをよく覚えている。
 その後大学に入り、大学のオーケストラでビオラばかり弾いていたので、レッスンへ行く機会もなくなり、先生とも疎遠になってしまったが、卒業後しばらくして、先生の訃報を聞いた。今でも間奏曲を聴くと、古いアルバムを覘くように当事のことを思い出し、もう二度と先生にレッスンを見てもらうことはないのだ、と切ない気持ちになる。

 ブルーメンのブラームスチクルス1回目は交響曲の1番だった。私はそれまでブルーメンの演奏会はなんと皆勤賞だったのが、演奏会直前に父を亡くしたため出演できなかった。このときのプログラムは、当時のことを思い出すので、今でも聴くのがつらい。目の前の現実によって受けた外傷は癒えても、心にぽっかり開いた穴は時間をかけてもなかなか埋まらないものだ、と思う。

 それでもなお、ブラームスの音楽はいろんな思いを全て包み込むように優しく、心を癒してくれる。それは例えば、冬の夕暮れに父の病室の窓から家族揃って見た綺麗な黒富士や、ブルーメンの仲間と弾いたブラームスの室内楽の刹那的な充実感、といった私にとって幸せな風景や思い出を、彷彿とさせるからだろう。
 仕事が忙しくて疲れている時など、気持ちがガサガサささくれだっている時には、ブラームスを聴いて、心に潤いを取り戻している。

私とブラームス5(第19回定期)

「私とブラームス」というタイトルでエッセイを書くことになった。
私にエッセイを頼むくらいだから、このプログラムの編集者は、私が相当ブラームスに対して思い入れを持っていると考えているに違いない。
あるいは書いてくれる人が私くらいしかいなかったのかもしれない。
とにかく、ブラームスは割と好きな作曲家である。どのくらい好きかというと、自分のパソコンにbrahmsと名づけているくらいである。
なぜベートーヴェンにしないのかというと、つづりが難しいからである。たしか、beetoubenとつづったと記憶しているが、あまり自信がない。
これがロシアの作曲家となると最悪である。チャイコフスキーやショスタコービッチなど、もはや覚えることは不可能である(正確なつづりを知っている方はアンケートの余白にでもご記入ください)。当の本人たちも自分の名前を覚えられなかったかもしれない。つくづく自分がロシア人でなくて良かったと思っている。ちなみに会社でメインで使っているパソコンにはbachと名づけていて、とても気に入っている。バッハはかなり好きな作曲家だ。以前、schumannと命名していたパソコンもあったが、なぜか数年前に壊れてしまった。
ところで、普段クラシックをあまり聴かない一般の人(本日ご来場下さったお客様が異常な人だという意味ではございません)にとって、ブラームスという作曲家は我々が思っているよりもなじみが薄いらしい。すなわち、名前を聞いたことはあるけれども実際に曲を聞いたことのある人は少ないようである。
私の友達も同様で、ブラームスの演奏会に誘っても「運命とか新世界なら行くよ」などと、大抵はつれない返事がかえってくる。よしんば演奏会に来てもらって感想を聞いても、おおよそ「良かった」か「眠かった」の2通りの回答しか得られない。ひどいのになると、「おまえが目立ってたよ」とか「今度はイングウェイ・マルムスティーンとジョイントやってくれ」とかめちゃくちゃなことを言い出す始末である。とはいえ、吹奏楽少年だった私も、かつてはレスピーギの「ローマの祭」とかホルストの「惑星」のような血沸き肉踊る系の曲がもっぱらで、ブラームスなんて渋すぎて聴いていられんと思っていたから、あまり人のことは言えないかもしれない。それが今では、ブラームス・チクルスなんてやっているオケに在籍しているのだから、世の中わからないものである。
小さい頃は苦手だった食べ物や飲み物が、成長していくことで、次第にその味の良さや奥深さがわかるということがある。音楽もこれと同じようなものかもしれない。小さい頃は退屈で眠たいとしか思わなかったブラームスの曲も、恋愛や離別、嫉妬、などの経験を重ねることで、自分の人生とブラームスの音楽とが同調し、次第にブラームスの良さわかるようになるのだろう。私も入学や卒業、就職といった重大な人生経験を積み重ね、今ではブラームスのCDもよく聴くようになった。特に布団の中で横になって聴くとぐっすり眠ることができる。コーラとかドクターペッパばかり飲んでいた少年が、渋い番茶や苦いコーヒーもすするようなおっさんになったというところか。でも、いちばん好きなのはビールです。

私とブラームス4(第17回定期)

寛容な大人でありたい、と思う。常にそういう気持ちが自分の内にあるのだが、もちろん実際にはその通りになど出来はしない。
以前、誰かと話をしていて、たまたま口論になり、内容は大した話ではなかったのだが、その口論の刺激のためか自分で驚く程涙が止まらなくなったことがあった。
話の相手にしてみれば、自分とはあまり関わりのないことで目の前で突然私が泣き出したのだからメイワクな話なのだが、こみ上げてくる気持ちの高ぶりをどうしても抑える事が出来なかった。
人は感情の生き物である。誰でも生きていればいつも様々な選択を迫られ、その度に自分なりの答えを出して形を整えてきたつもりでいても、感情は整えられるものではない。
ブラームスの音楽の根底には、理性ではどうにもならない感情のうねりが常に重々しく流れているように感じる。
それは深く暗い色彩を帯び、時に顔をもたげる優しいメロディーは諦めの声のようであり、また、溜息のようでもある。
そして、騎士道の精神に根付く力強さはどこかに弱さを内包し、寂しげである。 人は、年を重ねて大人になったつもりでいても、それは物のバランスのとり方を学んだだけで、本当は一生子供のままなのではないだろうか。いつも自由でいたい、何にも縛られずに生きたいと強く願いながらも、人々の愛と支えがなければ生きる意味は感じられない。 物事には限界がある。
しかし、その哀しみが充分すぎる程分かるからこそ人は優しくなれる。希望を手に邁進するのみである。

私とブラームス3(第16回定期)

私は曲を聞いた時に「~って感じ」と勝手にイメージを抱くことが多い。
そのイメージは我ながら悲しくなるほど、へんてこなものが多く、人に話して賛同を得たことはほとんどない。
むしろ激しいブーイングを食らうことが多いので、あまり人には言わないようにしている。
ブラームスに関して言うならば、ある時まで私にとってブラームスのイメージは「エースをねらえ」という漫画のお蝶夫人だった。
漫画の中に、お蝶夫人が試合中に独白で「あたくしこそは孤独だわ」と心の葛藤をあらわにするシーンがある。
その時、観客席でその試合を見ていた尾崎は、隣にいる藤堂の腕をぎゅっとつかみ、「まったくぞくっとさせられる。
ああいうところが好きなんだ」と言う。
私がブラームスを聞いて「ぞくっ」とした時、真っ先にイメージしたのは昔読んだこの漫画の一節だった。 それ以来、私にとって、よく言われるところのブラームスの悲劇性と情熱は、お蝶夫人のそれになってしまったのである。
ブラームスに対して新しいイメージを持つきっかけになったのは、彼のピアノ間奏曲だった。
それを初めて聞いたのは今から4年前、ブルーメンの合宿の行き道、ヴィオラT氏の車の中でのことだった。 すさまじい渋滞に巻き込まれ、東大9時出発~河口湖着18時という計9時間の移動中、目を血走らせてハンドルを握るTの横で(4人のうちドライバーは彼ひとりだった)、暇をもてあました我々乗客3人は、車の中に持ち込まれた紙袋一杯のCD、スコアをあさっていた。 その時に偶然かけられたのが、グールド演奏のピアノ間奏曲であった。
その時の衝撃はたいへんなもので、東京に帰ってからすぐにCDを買い、幾度も幾度も繰り返し聞いた。今になっても飽きることがない。
間奏曲の冒頭の優しい旋律を聞く時、いつも思い出すイメージがある。
それは「いつもポケットにショパン」という漫画の、主人公がピアノを弾きながら昔の出来事を回想するシーンである。
彼女は弾く時、真っ先に「おばさまの手から零れ落ちるキャンディ」を想起する。
私が間奏曲を聞いて真っ先に想起したのも「零れ落ちる」ものであり、「零れ落ちるもの」に対するブラームスの優しい眼差しであった。
大きな不幸を経験することなく、幸せに暮らしていても、手から零れていってしまうものはたくさんある。
疎遠になってしまった人たち、守れなかった約束、幻滅して崩れてしまった理想など、私はすぐに忘れてしまう。
それは幸せなことかもしれないけれど、実は忘れたふりをしているだけで、心の中にはしこりとなって残り続けているのかもしれない。
それらは歪んだ形になって積み重なり、私の中にいくぶんかある温かい気持ちを蝕み、言動に影響を及ぼしているのかもしれない。
だからといって、零れ落ちてなくしてしまったものを取り戻すことはもう出来ないのだろう。
でも、この曲を聞いていると、それらをすくいとり、やすらかな形で心の中に葬りなおすことが出来そうな気がしてくる。

私とブラームス2(第13回定期)

皆さんは何か一つの曲を聴いて、「あ、この曲は××色だ」なんて思ったこと、ありますか?
私の場合、なじみのオーケストラ曲はたいてい”色つき”です。 でもそのほとんどは、理由のよくわからない色づけで、たとえばチャイコフスキーの交響曲5番は「青」、モーツァルトの25番は「金色」という具合です。 『英雄』→闘い→流血、という極めて短絡的な発想から、ベートーヴェンの交響曲第3番は「赤」、という例もありますが。
ではブラームスの交響曲は、というと、これらもはっきり”着色”されていて、第1番から順に、白、黄、赤、みずいろです。 これも、何気なく出来上がっていた配色のはずだったのですが、実は4曲に対して私が抱いている別のイメージと見事に対応していることに最近気づき、我ながら目の覚める思いでした。 というのも私には、ブラームスの第1番~第4番は、春夏秋冬という季節の流れにそのまま重なるように思えてならないのです。 まず第1番、これは春の訪れです。雪解けの1楽章で始まり、4楽章では新しい生命の誕生に対する喜びが爆発、といった感じでしょうか。 第2番はさわやかな初夏。冒頭の低弦は波の音で、ホルンのあとの高らかなフルートはきらめく太陽光線です。 第3番は木枯らしの吹きすさぶ晩秋。第4番は厳寒の冬です。そして先ほどの4色ですが、白は雪を、黄は輝く太陽を、赤は夕焼けと紅葉を、みずいろは透明な氷を象徴しているというわけです。
こんな風に一度覆いこむと、他にもどんどんこじつけができてしまうからおかしなものです。 例えば、第2番3楽章のオーボエのメロディーは大輪の向日葵(ひまわり)に思えてくるし、第4番の4楽章は変奏曲だから、似てはいるけれどもどれも少しず つ違う雪の結晶にも通じるな、なんて。 でも、これらのイメージは完全に私のひとりよがりなのは言われるまでもなく明らかで、その証拠に、第1番の雪解けは私の故郷に近い立山連峰のそれが想定さ れているし、第3番の2楽章を聴くと、夕暮れ時に私の田舎の田園地帯を赤とんぼが飛び交う光景が浮かんでくるのですから。 それに、ドイツ人のブラームスがこんなに日本的な季節感を持ち合わせていたとも思えませんし。 巷で言われている、第2番=「田園交響曲」というのと、私の「夏の海辺」といのも、なんだか大違いです。ただ2番に関しては、ブラームスが夏の避暑地の湖 畔でインスピレーションを得て作曲したことを知り、「あながち的外れではないかも」などと一人で喜んでいる私です。 でも、ひとつの曲をめぐってもさまざまな思い入れを持った人たちがいて、その人たちがそれぞれに集まってさまざまな演奏をするから、音楽って楽しいんじゃ ないでしょうか。
皆さんのブラームスは、何色ですか?

私とブラームス1(第12回定期)

 「ピアノ四重奏曲第1番 ト短調」 (Vn. T.S)

好きな曲,思い入れのある曲は多数ありますが,好きな作曲家といえば,昔から断然モーツァルトとブラームスです。 ブラームスとの出会いは,幼少の頃,ハンガリー舞曲集をLPで聴き,家族で連弾したことです。 今でも,曲の中でLPが針飛びする場所,楽譜の配置まで思い出されるほど記憶が鮮明です。 私にとって,ハンガリー舞曲が唯一のブラームスでした。 今思えば,それはブラームスのほんの一面でしかなかったのですが。
こういう私を,ブラームスの世界へ一気に押し出したのが,大学1年の時にアマチュアの演奏で聴いた「ピアノ四重奏曲第1番 ト短調」です。ブラームスへの第1歩のみならず,何も知らなかった私にとって,室内楽の海への第1歩でもあったのです。これをきっかけに,ブラームスの室 内楽曲のCDを買いあさったものでしたが,一度で良いから,この曲を自ら演奏したいと思い続けていました。
その機会は,意外と早くきたのでした。 この曲に出会ってから1年後,ある合宿で,盲目のアマチュアピアニストと,この曲の4楽章を演奏する場を頂いたのです。 彼は,怒涛のごとく弾き始めました。目が見えないというハンディを全く感じさせず。 ハンディどころか,通常のアマチュアより上手で,完璧な演奏でした。 私自身は,引きずられるように演奏し,わけのわからないうちに終わってしまいました。 夢の曲のわりに,自分の演奏は御粗末でしたが,いろいろな意味で感動と衝撃の瞬間でした。
私は大学生になるまで,楽器を練習することの苦痛をあまり感じませんでしたが,同時に,特に楽しいわけではありませんでした。この曲は,自分に別の音楽人生のきっかけをつくってくれた曲,演奏することの喜びを与えてくれた曲です。 この曲に出会っていなかったら,今こうして,ブルーメンフィルハーモニーで楽器を弾いていることもなかったかもしれません。

ゲルハルト・ボッセ特集

Bosse2012年2月1日、ゲルハルト・ボッセ先生が逝去されました。
これまでのご指導に深く感謝するとともに謹んで哀悼の意を表します。

ブルーメンフィルは、2005年以来4回、ボッセ先生に指揮していただく機会に恵まれました。 昨年9月の第36回定期演奏会のブルックナー4番がボッセ先生との最後の演奏会となってしまったことは非常に残念ではありますが、リハーサルや本番を通し、本当にたくさんのことを教えていただいたことは当団にとって、団員にとって貴重な財産です。

先生に伝えていただいた多くのことを胸に、今後も演奏を続けてまいります。
ボッセ先生の安らかなお眠りを心からお祈り申し上げます。

ブルーメンフィルハーモニー 団員一同

これまでのボッセ先生との演奏会記録より

第43回定期演奏会プログラムノート

ウェーバー/歌劇「魔弾の射手」序曲

ドイツに生まれ、父の率いる歌劇団で各地を巡る幼少期を過ごしたウェーバー。13 歳にしてオペラを作曲し、17 歳のときには劇場の楽長に就任、とその才能は早くから開化。その後、プラハの名門歌劇場の指揮者に就任し、傾きかけていた歌劇場を見事に再興させ、ドレスデン歌劇場の音楽監督に抜擢される。ピアノ奏者でもあり、身体は小柄だったが10 度の和音をとらえる長い指を持ち、素晴らしい演奏技術を誇った。
さて、イタリアオペラが主流だった19 世紀初頭のヨーロッパ。そんな中に登場した、ドイツ人による、ドイツ語を使った、ドイツを舞台とし、ドイツの人々に古くから読まれてきた民話が元になっているウェーバーの歌劇「魔弾の射手」。
舞台は深い森―。主人公・狩人のマックスは、恋人アガーテと結婚するため、射撃大会に出るも、一発も命中しない。そんな様子を見たアガーテの父から、明日の射撃会の結果次第ではアガーテとの結婚を認めないと言われる。
悪魔と契約し、アガーテを生け贄にしようと企てていた狩人のカスパール。カスパールはマックスをそそのかし、明日の大会で魔弾の力に使うよう仕向ける。マックスは迷ったが、7つの魔弾を造り大会で使うことに。
翌日の射撃大会。6発は的に的中。7発目をマックスが撃ったとき、その弾はアガーテに!!…と見せかけて、カスパールに命中。
事の真相を打ち明けたマックスは永久追放の処分が下されるが、聖なる隠者の助言により1年間の試練を与えられ、行いが正しければアガーテとの結婚を許されることに。
いつの時代もハッピーエンドとホルンは愛されるものなのでしょうか。日本の童謡「秋の夜半」(あきのよわ)でも使われている冒頭のホルンの旋律。何度聞いてもしびれます。
(Tp. N. I.)

シューベルト/交響曲第5番 変ロ長調

交響曲第5番が作曲された1816 年は、19 歳のシューベルト(1797-1828)にとって大きな転機となる年であった。それまで勤めていた父親の学校での教職を辞し、音楽に生きることを志したのである。当時はまだ出版社から楽譜が出ることもなかったシューベルトを、友人たちは衣食住にわたり惜しみなく援助した。そのおかげでシューベルトは次第に作曲のみに専念するようになり、彼らの家では私的な演奏会が夜ごとに開かれた。
半年ほど前に作曲された交響曲第4番「悲劇的」のドラマチックなメロディーとは打って変わり、この第5番ではシンプルで軽快なリズムやフレーズが印象的である。オーケストラ編成の小ささ、調性の展開、それに個々のフレーズ等、多くの点でモーツァルトとの類似性が指摘されている。シューベルト自身がおそらく意図して、敬愛するモーツァルトへのオマージュとして作曲したのであろう。
実際、シューベルトが同年にモーツァルトの弦楽五重奏曲を聴いた日の日記では、以下のようにモーツァルトを絶賛している。「おお、モーツァルト! 不滅のモーツァルト! どれだけ多くの、おお、どれほど尽きることのない、軽やかでより良い生の刻印を、慈悲深くも我々の魂に刻み付けたことか!」
第1楽章 Allegro 変ロ長調、ソナタ形式
シューベルトの交響曲では初めて緩徐な序奏が存在せず、管楽器による4小節のカデンツのみが導入部である。5小節目から提示される第1主題は、軽快なスタッカートのリズムを伴った上昇形の分散和音であり、楽章を通じたモチーフとなっている。通常のソナタ形式とはやや異なり、再現部では変ロ長調の下属音である変ホ長調で主題が演奏される。
第2楽章 Andante con moto 変ホ長調、ロンド形式
歌曲のような甘美な主題が2回提示されるや否や、変ハ長調へと転調する。この転調はシューベルトの作品に特徴的なものであり、単にモーツァルトの模倣をしているわけではないことがうかがえる。その後も転調を繰り返し、ロ長調、短いながらも印象的なト短調を経て変ホ長調に戻る。
第3楽章 Menuetto. Allegro molto ト短調
シューベルトの他の交響曲のメヌエットとは趣の異なる、スケルツォ風の楽章。むしろ、モーツァルトの交響曲第40 番の第3楽章との類似がしばしば指摘される。ト長調のトリオは全体として穏やかで、低弦楽器の持続音により、どこか田園的な印象も漂う。
第4楽章 Allegro vivace 変ロ長調、ソナタ形式
楽章を通して舞曲のような軽快なモチーフで構成されており、こちらはハイドンの交響曲との類似性が指摘されている。
(Cb. K. W.)

ドヴォルザーク/交響曲第8番 ト長調

ドヴォルザークは、後期ロマン派のチェコの作曲家であり、スメタナと並びチェコ国民楽派の代表格とされる。ブラームスに才能を認められ国際的な人気作曲家となったこと、その後アメリカに渡り活動し、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を作品に吸収したが、郷愁に駆られ帰国したことは、逸話として有名である。
一般的にドヴォルザークの作曲家としての特色は、ブラームスとともに標題音楽の支配する新ロマン主義の19 世紀後半において、「古典的な絶対音楽の形式を重んじながら、民族的な要素を結び付けたこと」が挙げられるが、一方でオペラや交響詩にも背を向けず、歌曲・宗教曲等、広範囲な創作を残している。どのような背景の中で、独自の作風を醸造させて行ったのか、生い立ちを追ってみたい。
―1841 年プラハの北部、北ボヘミア地方に生まれる。生家は肉屋と宿屋を営んでいたが、父はツィターを演奏し、民族音楽が周囲にある環境で育つ。小学校に通い始めヴァイオリンの手ほどきを受けると、アマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始めたが、父親は家業を継がせるつもりであったため、12 歳で伯父の住むズロニツェという町へ肉屋の修業に行かせてしまう。ところが、この町の職業専門学校の校長は、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の
作曲も行う人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏の他、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えることとなった。
その後、経済的な理由により、父親はドヴォルザークを退学させ家業を手伝わせようとしたが、伯父の援助により、16 歳でプラハのオルガン学校へ進むこととなる。
19 歳で卒業すると、ホテルやレストランで演奏する楽団のヴィオラ奏者を経て、新しく建設された国立劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となる。この頃よりモーツァルト、ベートーベン、シューベルトの技法を学び、室内楽・交響曲の作曲を始めるが、楽団員として実地の音から学び、独学で作曲技術を獲得していく。
またオペラの分野についても、オーケストラピットの中でチェコ国民オペラの誕生に立ち会う中で、創作意欲を高めていく(1866 年には国民劇場にスメタナが指揮者として着任、歌劇「売られた花嫁」の初演には、ヴィオラ奏者として参加している)。ただし、専ら興味を覚え、影響を受けたのはワーグナー作品であった。
作曲に専念するために劇場の職を辞したのは30 歳のときであり、その後、33 歳で教会オルガン奏者の職を得、さらにオーストリアの国家奨学金を受け、金銭的に余裕もできる(当時ボヘミア地方が政治的にハプスブルク帝国の属国下にあり、チェコ人も奨学金の適用対象となった)。
何より、審査員であったブラームスの知遇を得たことの影響が大きく、作風の面でもワーグナーの影響からも脱していく。以後、ドヴォルザークはブラームスの支援を受け、国際的な作曲家としての一歩を踏み出すこととなる。かくして、円熟期のドヴォルザークは、ベートーベン、シューベルトなどの古典音楽に育まれた音感の上に、夢中になったワーグナーの語法、ブラームスから直接学んだドイツ音楽の構成法、幼児(幼時?)から身に着けた民族的な舞曲や民謡の色彩感、それらのものを渾然と消化していったのである。
本日演奏する交響曲第8番は、多忙な音楽家として活躍するなか、1889 年48 歳の夏から秋にかけて、別荘の田園生活のなかで構想を得て作られた。ブラームスの模倣から距離を置き、独自のボヘミア色に溢れている。
1890 年2 月2 日プラハでの初演は、ドヴォルザーク自身によって行われ大成功を収めた。
第1楽章 Allegro con brio ト長調
チェロによる短調の美しい序奏で始まり、フルートによる第1主題から主部となる。副主題は2
つあり、展開部、再現部を経て、最後はト長調で明るく終わる。
第2楽章 Adagio ハ短調
弦のやわらかい旋律で始まる。不規則な三部形式をとり、随所に小鳥の鳴き声のようなフレーズ
が現れる。最後は明るくハ長調で終わる。
第3楽章 Allegretto grazioso ‒ Molto vivace(加えてOK ?) ト短調
美しい旋律で始まるワルツ風の舞曲。中間部の旋律は、歌劇「がんこな連中」からとられたもの。
ト長調・4拍子となる力強いコーダもまた同じ素材をもとにしている。
第4楽章 Allegro ma non troppo ト長調
主題と18 の変奏。トランペットの輝かしい序奏に続いてチェロが主題を奏でる。変奏曲を交響曲の終楽章に持ってくることは、ドヴォルザークの交響曲の中ではこれが唯一である。
(Va. H. S.)

第42回定期演奏会プログラムノート

パリー/ブラームスへの哀歌

英国の作曲家というと、多くの場合ホルストやエルガーを思い浮かべるであろう。しかしパリーについて調べてみると、彼らに引けをとらぬ偉大な功績を残していることがわかる。
1848 年に生まれたパリーは、若かりし頃保険会社として知られるロイズに勤務していたが、1884年にロンドン王立音楽大学の創立と同時にその教授に迎えられ、1894 年には学長に就任、その後オックスフォード大学音楽科の教授も兼務。ヴォーン・ウィリアムズやホルストらを育てた教育者であるとともに、その力強い作風はエルガーにも影響を及ぼしており、近代イギリス音楽界の礎を作った作曲家であると言えよう。
彼は5つの交響曲、ピアノ協奏曲、多くの室内楽曲や声楽曲、音楽に関する数々の著作や論文を残している。ワーグナーと親交があったものの、その作風はドイツ・ロマン派においても特にブラームスの影響を受けたとされる。実際に、交響曲の5番を聴いてみると、やはりその響きは純粋なイギリス音楽ではなく、ブラームスの面影が多くの場面で感じられる。また晩年の作品であるオルガン伴奏による聖歌「エルサレム」は、エルガーの編曲によるオーケストラ伴奏版が、ロンドンで毎年開催される「プロムス」の最終夜に国家とともに必ず演奏されており、英国では誰もが知る彼の代表作である。
そして本日演奏する「ブラームスへの哀歌」は、彼が最も尊敬していたブラームスが没した1897年に作曲されたもので、特に展開部におけるクラリネットによる美しい旋律や、ドイツ的ともイギリス的ともとれる、終結部の響きが印象的である。なお、本作品はパリーの生前に演奏されることはなく、1918 年の彼自身の追悼コンサートにおける演奏が初演となった。 (K. T.)

ダルベール/チェロ協奏曲 ハ長調

「オイゲン・ダルベール(Eugen d’Albert)」とは、不思議な名前である。彼はスコットランドで生まれ育ったというが、「オイゲン」という響きはいかにもドイツ風、「d’Albert」というつづりはいかにもフランス風である。ドイツ音楽の演奏で名演を残した大ピアニスト、ウィルヘルム・バックハウスが師事したのが他ならぬダルベールであるが、ではそのダルベールが書いた音楽とは?ドイツ的なものを体現した作品なのだろうか?否、スコットランドで生まれたフランス風の名前の人間が、緊密な構成の曲を書くのだろうか?気になるところであるが、彼のチェロ協奏曲に触れる前にまずはその生い立ちを紐解いてみよう。
ダルベールは1864 年にスコットランドのグラスゴーに生まれた。作曲家である父はドイツ生まれのイタリア系フランス人、母はイングランド人である。幼少期から独学で音楽を学んだ彼は神童と称され、ロンドン王立音楽院に入学した。奨学金を得てウィーンに留学した1881 年にはハンス・リヒターの紹介でフランツ・リストに出会い、翌年からワイマールでリスト門下となる。その後、ピアニスト・作曲家として活躍し、1932 年に67 歳で亡くなった。ドイツ移住後に彼はドイツの文化、音楽に親和性を感じ、自らをドイツ人であると宣言した。私生活では6度の結婚を経験するという波乱に満ちた生涯だったようで、強烈な個性と激情を秘めた人物像が浮かんでくる。
ピアニストとしての彼は幅広いレパートリーを持ち、 中でもベートーベンやリストの評価が高かった。師であるリストのみならず、ブラームスもその才能を認めていたという。劣悪な音質ではあるが、彼が演奏したベートーベンやリスト、ショパン、さらには彼にとっては現代音楽であったドビュッシーの録音が今に残されている。作曲家としての彼は多産であった。現在では演奏される機会は少ないが、交響曲や協奏曲を含むピアノ曲、室内楽や歌劇など多くの作品を残している。彼の唯一のチェロ協奏曲は1899 年に作曲され、名チェリストのフーゴ・ベッカーに献呈された。今日では演奏機会が減ってしまったが、かつてはチェリ
ストにとって重要なレパートリーであったという。
この作品は全曲が切れ目なく演奏される形をとっており、シューマンのチェロ協奏曲からの影響をうかがわせる。曲はまずAllegro moderato で始まり、独奏チェロの分散和音を背景にオーボエが魅力的な旋律を歌い始める。この第1主題はクラリネットに引き継がれた後、ようやく独奏チェロに渡される。
この協奏曲が、独奏の技巧に焦点を当てるというよりは、独奏とオーケストラを一体として扱うという性格を有していることがこの冒頭部分から早くもわかるだろう。中間部のAndante con moto は別世界の音楽である。夢見るような旋律を、またしても独奏者に先立ってオーケストラが提示するところから始まる。曲想は次第に盛り上がり、上昇への意思を見せるような音階の連続、そして沈潜。音楽はtranquillo となり、天上に昇華するようなフレーズが奏されると、突如Allegro vivace に突入する。嵐のような音楽が過ぎ去ると全曲の冒頭部分が回帰し、力強く全曲を締めくくる。
彼の生い立ちに由来しているのだろうか、筆者はこの作品に(切れ目なく演奏されるという点以外にも)シューマン的な要素やイギリス音楽の要素など様々なものを感じる。皆さんはどうお感じになるだろうか? 本日の演奏を楽しみにしていただきたい。 (M. Y.)

ブラームス/交響曲第1番 ハ短調

「僕の交響曲は長ったらしくて、その上ちっとも愛すべき作品ではないんだよ」(カール・ライネッケへの手紙より)
ブラームスの最初の交響曲は、20 年以上に及ぶ構想から産み出されたものであることはあまりにも有名である。
北ドイツ(当時の国名は「プロイセン」)の港町・ハンブルグの貧民街に生を受けたヨハネス・ブラームスは、弱冠ハタチにしてシューマンの熱烈な歓迎とプレッシャーを受けつつも、「ドイツ(語の)・レクイエム」により国内外の知的階級の期待に応えた(33 歳)。「ハンガリー舞曲集」の興行的大成功を経た1872 年には39 歳の若さでウィーン楽友協会の芸術監督に就任していることからも、社会的にも経済的にも充分な地位を得た稀有な音楽家となっていたことがうかがえる。
「長すぎる」作曲期間にまつわるエピソードがあまりにも有名であり、楽聖・ベートーヴェンが打ち立てた「交響曲」という名の金字塔に相対する精神的闘
争や、苦悩からの勝利・解放へ、といった先入観とともに語られがちなこの曲だが、実際に通して聴いて(演奏して)得られる印象はやや異なったものである。
既に楽壇において揺るぎない地位を占めていた青年ブラームスにとって(写真参照)、交響曲の発表は「満を持して」のものであったに違いない。
第1楽章
冒頭、全管弦楽(in Es ホルン2本、トロンボーン除く)により開始される序奏(Un poco sostenuto)では、ティンパニ、コントラバス、コントラファゴットによるC 音の連打が印象的であるが、弦楽器の上昇進行と木管楽器の下降進行とがぶつかり合う緊張感もまた推進力となっている。Allegro となる主部ではヴァイオリンに第一主題が出るが、次第に運命的な動機「タタタ・ター」の支配力が強くなる。
コーダではやや速度を落としながらも序奏よりはやや早く(Meno allegro)、長調に転じた第一主題が穏やかに結ばれる。初演当初、コーダは冒頭と同じくpoco sostenuto であったが、あまりにも「遅く」演奏されてしまうことを恐れ、速度記載が変更されたという。なお、この楽章の草稿は1862 年の段階でシューマン未亡人(嫌な言葉だが)クララに送られている。
第2楽章
柔らかくあたたかいホ長調。哀愁を纏うオーボエによって謳い上げられる旋律を、クラリネットがたゆたいながらも受け流すが、ついには交響曲史上前代未聞ともいえるオーボエ、ホルン、さらには独奏ヴァイオリンのトリオ・ソロによる直球勝負となる。愛するもの、あるいはかつて愛したものへの憧憬、か。
第3楽章
変イ長調。メヌエットでもスケルツォでもないun poco Allegretto e grazioso。前楽章に続きつつも、ややそっけない「うつろい」がたまらない。
第4楽章
弦楽器によるピッチカートが特徴的な序奏に続き、アルプホルン(アルプスの角笛)に由来するとされる雄大なホルンの旋律が現れる。歌はフルートに引き継がれ、ここまで温存されてきたトロンボーンによるコラールの響きを導く。人間目線から 「聖なるもの」 への遷移だろうか。続いて第九『歓喜の歌』 主題をまざまざと想起させる主題が導かれ、ベートーヴェンとの比較を確信犯的に聴き手に強いる。コーダではコラールが再現され、力強く曲を閉じる。
頑迷とも捉われかねないほどに徹底された構成美と、あこがれの発露とも思える剥き出しの感情とが等しく内包され、対立しつつも高次元に昇華された作品であるとは言えないだろうか。
「彼は人間を愛し、また求めていましたが、他人が彼を求めたときには自分の殻に閉じこもってしまうのです。彼は与えることが好きでしたが、自分に対する要求や期待は撥ねつけました」(シューマン夫妻の遺児、四女・オイゲーニエによるブラームスへの回想より)

かつてブルーメンでは第12 回( 1998年) ~ 17回定期( 2000年) の4回にわたり「ブラームスチクルス」と銘打って演奏会を行い、その後もドイツ・レクイエム、管弦楽曲のほか、「2番」「4番」は再演の機会にも恵まれた。創立20 周年には幸いにもベートーヴェンの「第九」をとりあげることもできた。当時のチクルスを経験したメンバーは約15 年を経た今も少なくなく、かつ、多くの新しい仲間を迎えたオーケストラとしてこの曲をふたたび演奏できることは極めて喜ばしい。「いぶし銀」などと称されることもある彼の作品には、確かに若かりし頃には気づけなかった「なにか」が含まれているようだ。斜に構えがちな若者はそのような「容易に解釈できないもの」に惹かれるのかもしれない。いまやすっかり「第1番」作曲当時のブラームスと同年代となり、「お○゛さん」の呼称をもはや免れられない者として、「与えられた」音符に刻み込まれたものをそれぞれの「想い」として表現できれば幸いである。
参考文献 ・新潮文庫 カラー版 作曲家の生涯『ブラームス』 三宅幸夫
・音楽之友社『ブラームス、4つの交響曲』 ウォルター・フリッシュ(天崎浩二/訳)
(I. T.)

特別演奏会~18 世紀シンフォニーの系譜プログラムノート

 C. P. E. バッハ生誕300 年記念、ラモー没後250 年記念

ラモー/歌劇「ナイス」より序曲、シャコンヌ

ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)はJ. S. バッハ(1685-1750)やヘンデル(1685-1759)と同時代に活躍した後期フランス・バロックの巨星である。1722年に音楽理論書として『和声論』を発表し、その2年後には「クラヴサン曲集」を発表して音楽理論家およびクラヴサン(チェンバロ)奏者としての地位を確立した。1733年、齢50にして初めて上演したオペラ「イポリートとアリシ」は大成功をおさめ、以後81歳で没するまでに実に30もの作品を発表し、フランス・バロック・オペラの黄金時代を築いた。
「ナイス」はその中では15番目の作品にあたり、1749年にパリで初演された。スコアに「平和のためのオペラ(opéra pour la paix)」と記されており、オーストリア継承戦争の終結を祝うための曲とされている。ラモーの得意とする悲劇とはまったく異なる「英雄牧歌劇(pastorale héroïque)」のスタイルで作曲されたこのオペラは非常に寓話的で、例えばプロローグでタイタンに勝利するジュピテルなどは、ルイ15世の象徴だといわれる。
さて、ラモーの魅力は何といっても「音遊びの楽しさ」にあるように思う。細かい音の一つ一つに意味があり、うまく鳴らせば、まるで楽器が、そしてオーケストラ全体が生き物であるかのような響きが生まれる(まさに音で「生き物」を表現するような効果のあるシーンも)。本日お届けする序曲とシャコンヌでも、弦楽器、オーボエ、トランペット…楽器ごとの特性と違いを効果的に用いた楽しい表現が随所にちりばめられているので、ぜひ、耳と集中力を研ぎ澄まして楽しんでいただきたい。
今年で没後250年という一つの記念年を迎えるラモー。日本での演奏機会はまだ決して多いとはいえないが、本日の演奏によってラモーの持つ優雅さ、コミカルさ、お茶目さ、様々な魅力を感じ取っていただけたら幸いである。
(Vn. G. Y.)

C.P.E.バッハ/管弦楽のための交響曲 ヘ長調

管弦楽のための交響曲(シンフォニア)ヘ長調Wq. 183/3(H. 665)は匿名のパトロンの依頼により1776 年に作曲され、1780 年に出版された作曲家後期の作品である。C. P. E. バッハの初期の頃の作品はイタリア様式の器楽曲が多い。また、作曲当初は弦楽器での合奏のために作曲され、後になってバッハ自身がトランペットやティンパニなどのパートを加えたものがある。パートの構成としては、ヴァイオリンはほとんどユニゾンで旋律を奏で、時にセカンド・ヴァイオリンが三度下の音でファースト・ヴァイオリンを支えるくらいであった。また、ヴィオラは通奏低音(チェロやコントラバスなどの低音声部)の旋律の1 オクターブ上を奏でる形で曲全体が作られていた。これに対し、後期の交響曲の特徴としては、上声部と内声部のそれぞれが独立したパートとして通奏低音に支えられる構成が多く、木管楽器のオブリガートパートも作曲時から曲に組み入れられている。これはバッハが、1770 年頃の新しい音楽様式の流行を取り入れたことを意味する。また、通奏低音のパートについては、後期の作品になるにつれて、旋律を支える単純な役割から、独立したパッセージを持つ声部へと変化していった。
シンフォニアWq.183/3 は、急-緩-急という構成を持つ、当時の北ドイツ地方でよく用いられた3 楽章の形式で書かれている。主題である旋律に、ヴァリエーションが加えられていく形で各楽章が展開されていく。第1 楽章は、弦楽器による力強いユニゾンで始まり、ヴァイオリンから通奏低音までが、走るように細かい16 分音符を奏でる。主要テーマは、ヴァイオリンや木管楽器による静かな旋律を間に挟みながら4 回繰り返される。どこかメランコリックな第2 楽章のラルゲットは、ヴィオラとチェロが互いに慰め合うようにメロディーを奏でることで始まり、それに他のパートが徐々に追従するように旋律が増えていく。楽章の最後はその憂いが漂い、それが解決しないまま第3 楽章の明るいプレストへ移り変わる。
第3 楽章においては、軽やかな旋律が始まるや否や、ダイナミックに2 つ目のテーマが登場する。転調やヴァリエーションを加えながら、最後は力強いユニゾンで幕を閉じる。
Wq. 183 として知られる4 つの交響曲は、バッハの死後、19 世紀から20 世紀にかけていく度も復刻版が出版されている。そしてこれらは、モーツァルトやハイドンによる作品を除き、18 世紀の交響曲としては珍しく、作曲家の生前から私たちが生きる現代まで広く演奏され続けている。
(Vn. N. S.)

C.P.E.バッハ/弦楽のためのシンフォニア ハ長調

--彼は独創的だ! 彼の作品すべてに、独創的という刻印が押されている(ヨハン・カスパル・ラファーター『観相学の断章』)
C. P. E. バッハの『自叙伝』(1773)には、最新作として「1773 年依頼に応えて6 つの四声のシンフォニアを作曲」との記載がある。これが「弦楽のためのシンフォニア」(Wq. 182, H. 657-662)であり、本日演奏するH. 659 はその第3 曲である。
依頼者のスヴィーテン男爵はバロック楽譜のコレクターであり、また自宅コンサートでこれらの音楽をモーツァルトら当時の音楽家に聴かせ、ウィーン楽友会を設立し、さらには自らも作曲するなど、多数の功績が現在でも知られるオーストリアのアマチュア音楽家である。本業は外交官であり、音楽にとどまらない多彩な教養は、貴族との交渉にも活かされていた。第1 次ポーランド分割(1772)交渉の成功後に作曲を依頼したと考えられる。
「何の制約もなしに、思いのたけ自由に」との要望通り、四声のシンプルな構成ながら、大胆なテーマ・新鮮な和声進行といったC. P. E. バッハらしい仕掛けが緻密に織り込まれている。バロック後の音楽の過渡期に現れた、時に過剰なほどの感情豊かな表現形式は、やがてハイドンやベートーヴェンらに受け継がれてゆくのである。
第 1 楽章:冒頭から強奏のユニゾンで独創的なテーマが奏でられ、その後も疾風怒濤のような旋律が続く。急に弱奏の旋律が一瞬現れたり、突然休止したりする。「ピアノでもハイテンション」(懸田氏談)。冒頭のテーマが再現されたかと思うと、休止なしに第2 楽章に突入する。
第 2 楽章:予想外の減七のドラマティックな和音の強奏から始まる。1 小節の弱奏をはさみ、さらに別の減七の和音が追い打ちをかける(ちなみに冒頭4 小節のバス声部はドイツ音名でB, A, C, H、「バッハのテーマ」である)。その後はヴァイオリンの二重奏とヴィオラの伴奏という三声構成で、半音階を用いた美しい旋律が奏でられる。所々で冒頭の減七の和音が現れ、そのたびに旋律は異なる変化を見せる。
第 3 楽章:ソナタ形式。弱奏と強奏が目まぐるしく入り乱れ、旋律ごとの対比を際立たせている。
(Cb. K.W.)

ハイドン/交響曲第 97 番 ハ長調

交響曲第97 番ハ長調は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1792 年に作曲した交響曲であり、いわゆる「ザロモン・セット」あるいは「ロンドン・セット」と呼ばれる交響曲群の一つに位置づけられる作品である。ハイドンは、彼の音楽家としてのキャリアの長年に渡り仕えてきたエステルハージ家のニコラウス(ミクローシュ)侯爵の死去後、当時ドイツで活躍した興行主であったヨハン・ペーター・ザロモンの招きにより、1791年から1792 年、および1794 年から1795 年にイギリスを訪問している。この折に作曲・初演された第93 番から第104 番の交響曲群が「ザロモン・セット」であり、本作品の他にも交響曲第94 番「驚愕」や第100 番「軍隊」、第104 番「ロンドン」など、現代においてもハイドンの交響曲の中で最も人気のある作品が並ぶ。これらの作品は当時の観客にも非常に熱狂的に受け入れられたという。
交響曲第97 番は、ザロモン・セットの中にあって上述の副題付きの作品と比較すると必ずしも演奏機会に恵まれているとはいえないが、いかにもハイドンらしい創意工夫に満ちた作品である。充実したオーケストレーションで安定感のある構成の中に随所にみられるユーモアと、特に終楽章のジェットコースターのようなスリリングな音楽はさすがであり、ハイドン好きの人にとってもそうでない人にとっても、非常に魅力的な作品である。
第1 楽章:Adagio – Vivace ハ長調 3/4 拍子 序奏付きソナタ形式。緩やかな序奏部の後に、強烈なユニゾンで楽章を貫くテーマが提示される。
第2 楽章:Adagio ma non troppo ヘ長調 4/4 拍子 変奏曲形式(主題と3 つの変奏とコーダ)。途中の変奏で、ヴァイオリンに対し当時としては珍しいal ponticello の指定を付している。
第3 楽章:Menuet. Allegretto ハ長調 3/4 拍子 3 部形式のメヌエット。
第4 楽章:Finale. Presto assai ハ長調 2/4 拍子 ロンド・ソナタ形式。
(Hr. K.S.)

<インタビュー> ゲスト・リーダーの懸田貴嗣さんに聞きました

--今回のプログラムは、ブルーメンにとって新たな領域への挑戦となりますが、意義についてお伺いさせてください。
例えばベートーヴェンを演奏するときに、ベートーヴェンの語法が何なのかということを体系的に知る機会ってなかなかないと思うんです。それを知るためにはその前の時代の音楽を知ることが必要であって、そういう意味で例えばC. P. E. バッハとハイドンというのはベートーヴェンの音楽に非常に大きな影響を及ぼした作曲家ですし、ラモーもC. P. E. バッハもハイドンもそれぞれ独立した作曲家として18世紀においてきわめて重要な作曲家なので、それをきちんと一緒に取り上げるのは、18世紀後半から19世紀前半にかけてのオーケストラの語法を身につける上ですごく大事なことだと思います。
--作曲家の「縦のつながり」を意識したプログラム構成となりましたが、時代を越えた作曲家の関係についてもう少し聞かせていただけますか。
ハイドンは、18世紀当時大バッハよりも有名だったC. P. E. バッハを大変尊敬していて、私はC. P. E. バッハから大きな影響を受けていると自身で語っています。主に中期の「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」といわれている感情表現の激しい作品など、影響は明らかですね。ベートーヴェンはハイドンの弟子でしたが、ハイドンから学んだものは何もないと言ったと伝えられています。しかし例えば交響曲第1番などはハイドンの影響なしには考えられませんし、やはりハイドンの音楽のエッセンスをはっきりと引き継いでいると思います。
--フレンチバロックのラモーの曲が組み込まれているのも今回の演奏会の特徴ですね。
C. P. E. バッハ以前の音楽をやりたかったのです。今年はラモー没後250年のanniversary yearですし、彼の作品の中で「ナイス」の序曲は比較的取り組みやすい曲です。シャコンヌについては、みんなシャコンヌという名前は知っていると思いますが、どんな舞曲かは知らないという人も多いでしょう。そこで、バロック時代のシャコンヌを取り上げたときにみんながどう感じるか、どういう学びをするかというのも面白いと思いました。
--ハイドンの交響曲には懸田さんからの提案でフォルテピアノが加わりましたね。
一連のロンドン・セットでは、フォルテピアノのソロ部分が出てきたり(98番)、初演時にハイドン自身がフォルテピアノを弾きながら通奏低音と指揮を担当したり、とぜひオーケストラの中にいてほしい鍵盤楽器なんです。しかも今回それ以外の曲目はチェンバロが入りますから、2台も通奏低音のための鍵盤楽器を使うという、採算のとれない通常の興行ではありえない(笑)超豪華版です。
--古い時代の曲を演奏するとき、ヴィブラートをかけずに弾くというやり方もありますが、それについてはどのように思われますか。
ノンヴィブラート奏法というのは、ガット弦だからかける必要がないと感じる、もしくは音楽に対して必要ではないと感じるからかけないという内的な動機があるものです。そのような内的必然がなく、単にヴィブラートをかけないで弾くというのは、あまり意味がないと思います。
--西洋音楽の歴史の浅い日本では、今回のような曲目が演奏される機会は必ずしも多くありませんが、ヨーロッパの事情はいかがでしょうか。
ヨーロッパでは、古い音楽とロマン派の音楽は対等にプログラミングされています。その点はやはり西洋音楽の伝統の違いでしょうね。アマチュアのオーケストラは採算にとらわれず冒険できるのだから、古い音楽や現代音楽にどんどん取り組んでいってもよいと思います。
--懸田さんのような古楽の専門家にご指導いただきながら取り組むことができる今回の企画は、ブルーメンが良い方向へ向かうきっかけとなる
有意義な演奏会になりそうです。このたびは貴重なお話をありがとうございました。
 

第41回定期演奏会プログラムノート

ハイドン/交響曲第88 番ト長調「V 字」

ハイドンは1761年から1790年までの約30年間、ハンガリーの有力貴族であるエステルハージ家に宮廷音楽家として仕え、そこで数多くの、そして様々なジャンルの作品を残した。特に交響曲においては、常に大胆な作曲手法を試み、器楽の地位を高めることに成功した。
本日演奏する88番が作曲されたのは1787年とされている。これはちょうど「パリ交響曲(82~87番)」と「ザロモン交響曲(93~104番)」の間にあたり、おそらくハイドンがもっとも「ブイブイ言わせていた」時期でないだろうか。熱狂的ともいえる音楽愛好家であったエステルハージ家の君主から多量な作曲を依頼される、いわば「おかかえ宮廷楽長」だったハイドンの名声がひろくヨーロッパに轟き、外部からの作曲依頼が飛躍的に増加していたような頃のことである。
第1楽章は、雄大なアダージョの序奏からソナタ形式のアレグロへ導かれる。弦楽器によって第1主題が呈示され、小気味よく、しかし緊張感を保ちながら繰り返されていく。
第2楽章はオーボエとチェロの美しい重なりから始まる心地よいラルゴ。身も心も溶かしてしまいそうなその旋律に加え、中盤ではトランペット・ティンパニが独創的に用いられる。
第3楽章は装飾から始まる軽快で明るいメヌエット。途中、民族舞曲風のトリオには奇妙なバクパイプ風の効果があり、それにちなんでドイツでは88番全体が≪バクパイプ付き(mit dem Dudelsack)≫と呼ばれることも。なお日本で名の知れている≪V字(Letter V)≫という呼び名はイギリスの
出版社が付した整理用の番号がたまたまアルファベットの "V" だったからにすぎないとか。(私ははじめ、オーケストラの編成を上から俯瞰すると隊列がVの字に見えたりするのかしら、などとしょうもないことを考えていたが…)
第4楽章はアレグロ・コン・スピーリト。複雑に工夫が凝らされた、輝かしい響きを持った曲である。ソナタ=ロンド形式は美しく、高声部と低声部の弦楽器によってフォルティシモで次から次へとカノンが続いていく。属七の和音でいったん終結すると、なだれこむようにしてコーダに向かい、喜ばしいままに終わりを迎える。
≪戯れたり、興奮させたり、笑いをひきおこしたり、深い感動をあたえる、といったようなことを、ハイドンほどうまくできる人はだれもいません≫
ハイドンと親交の深かったモーツァルトは、1781年から1785年の間に作曲した6つの弦楽四重奏曲(いわゆる「ハイドン・セット」)を献呈する際、そう語ったという。この88番も、まさにそんな曲ではないだろうか。
(Vn. G. Y.)

モーツァルト/オーボエ協奏曲ハ長調

この作品は、1777 年、モーツァルトが21 歳のころに作曲されたものといわれる。当時モーツァルトは、故郷ザルツブルクで、貴族の庇護のもと宮廷音楽家という安定した身分を与えられ、明るく快活な作品を多く生み出していた。しかし、幼少期から父に連れられてウィーン、パリ、ロンドンなどで最先端の文化に触れ続けてきた彼にとって、人里離れた山中にある田舎町のザルツブルクでは物足りなかったのだろう。この年の9月、モーツァルトは宮廷音楽家を辞め、活躍の場を求めて故郷を去っていく。
この作品は、モーツァルトが書いた唯一のオーボエ協奏曲である。世界で最も有名なオーボエ協奏曲であり、今日ではコンクールやプロオーケストラの入団試験でも必ず課題にあげられる曲となっている。巷でオーケストラブームを巻き起こした漫画「のだめカンタービレ」の中でも、普段は武士然と渋い演奏をしていたオーボエ奏者の黒木くんが、のだめに恋して“ピンク色”の演奏をするという場面で使われていた。こうした人気ぶりからは信じられないことだが、この作品の楽譜は長い間行方不明であり、20 世紀に入り発見されてようやく陽の目を見ることとなったのである。
さて、オーボエの魅力といえば何よりその柔らかく深みのある音色にある。加えてこの作品では、華やかな明るさ、軽やかさ、伸びやかさ、優美さなど、オーボエの持つ様々な魅力を存分に味わうことができるだろう。技巧的な部分の多い難曲でもあるが、そこを重苦しく聴かせないところは、さすがモーツァルトである。
本日は、日本屈指のオーボエ奏者である古部賢一氏のオーボエ独奏兼指揮により、オーボエの魅力を満喫していただきたい。各楽章最後のカデンツァ(即興独奏)もお楽しみに。
第1 楽章:Allegro aperto ハ長調 4/4 拍子
協奏風ソナタ形式。オーケストラ伴奏により2 つの主題が提示された後に、オーボエが単独で2 つの主題を演奏する。短い展開部、続く再現部
を経て、カデンツァで終章する。
第2 楽章:Adagio non troppo ヘ長調 3/4 拍子
ソナタ形式。オーケストラ伴奏による序奏の後、オーボエ独奏により2 つの主題が提示されるが、展開部と第1主題の再現を欠くまま第2 主題のみ再現されて、カデンツァで終章する。
第3 楽章:Allegretto ハ長調 2/4 拍子
ロンド風ソナタ形式。冒頭でオーボエ独奏による第1 主題が提示され、第2 主題が演奏された後、これら主題が交互に繰り返されて、カデンツァで終曲する。
(Ob. K. S.)

シューマン/交響曲第3 番変ホ長調「ライン」

1850 年9 月2 日、ロベルト・シューマンはフェルディナント・ヒラーの推薦によってデュッセルドルフ市の音楽監督に就任し、ライン川湖畔の同市に転居した。9 月29 日には妻クララ・シューマンと共にライン川を遡ってケルンに旅をしており、クララの日記にもこの町の観光を楽しむ様子が記されている。
29 日の日曜日、私たちはケルンへと気分転換の旅に出た。ドゥーツの初めの景色からすっかり魅了され、とりわけ大聖堂の壮麗さは素晴らしく、より近くから見るとそれは、私たちの期待をさらに上回るものだった。…(中略)…私たちは見晴らし台へと行った。そこからのラインの眺めも本当に美しいものだった。…
夫妻は11 月4 日から6 日までケルンを再訪しているが、この旅とラインラントの町から受けた印象が変ホ長調の交響曲につながったとされ、「ライン」の名前で呼ばれている(シューマン自身はこういう表題はつけなかった。この呼称も没後のものである。しかし、シューマン自身もN.ジムロックへの手紙でラインラントの生活の様々な姿が作品の中に映し出されていることを認めている)。1248 年から建造が開始されたケルンの大聖堂は19 世紀になっても完成しておらず、高々とそびえる塔は未完成だったが、壮大なドームがシューマンにどのような感想を抱かせたかは、クララの日記や第4 楽章(後述)から想像に難くない。5 楽章からなるこの交響曲のうち、2 つの楽章には当初叙述的なタイトルがつけられた。スケルツォの「ラインの朝」、第4 楽章の「荘厳な儀式の伴奏の性格にて」がそれである。後にシューマンは「自分の心象をあらかじめ公にする必要はない」との理由からタイトルを取ってしまうが、この交響曲とラインラントとの深い関係を見ることができるであろう。また、作曲は1850 年11 月2 日に着手され12 月9 日に完成したが、11 月12 日に執り行われたケルンのヨハネス・フォン・ガイゼル大司教が枢機卿に承認された際の祝典に触発され、第4 楽章が書かれたといわれており、トーヴェイはこれを「対位法を用いた教会音楽としてはバッハ以降、最高の作品」と評している。
初演は完成翌年の1851 年2 月6 日、シューマン自身の指揮によってデュッセルドルフで行われ、同月25 日にはやはりシューマンの指揮でケルンで演奏されている。
第1 楽章
ソナタ形式で書かれたこの第1 楽章は、序奏部なしに全楽器の強奏で力にあふれた第1 主題で始まり、ライン川の雄大さをイメージさせる。95小節目から第2 主題がト短調でオーボエとクラリネットによって現れる。第2 主題を中心とした長めの展開部を経て、ホルンによる第1 主題を契機に演奏は徐々に力を増し再現部に突入する。
第2 楽章
スケルツォと名付けられているが、素朴な民俗舞踊曲風で形式としてはロンド風である。ここでも第1 楽章の主題が浸透し、その明るさと確実さが晴れやかな気分を保たせている。
ライン川沿岸ののどかな風景を彷彿とさせる。
第3 楽章
木管楽器の優しくあたたかな主題で始まり、付点リズムで上下する音型と優美な旋律が交錯する。全楽章の間奏曲のような位置付け。
第4 楽章
ホルンとこの楽章で初めて登場したトロンボーンによる主題により第1 部が始まる。多声部にテーマが出てくるため、大聖堂に響き渡るような宗教的な雰囲気がある。第2 部では主題がカノン風に扱われ派生音型が展開される。第3 部は一層壮麗になり、弦のトレモロにのって主題が壮大に復帰し、オルガン風の和声が響くうちに終結する。
第5 楽章
ソナタ形式による晴朗な楽章。明快な低音部の動きに乗って秋の収穫祭を思わせる主題から始まり、ところどころに響く金管楽器などのファンファーレが祝祭的な気分を盛り上げる。第2 主題は控えめで、展開部に第4 楽章の主題が加わって総合されていく。ホルンによる上昇音型が現れて高潮し、再現部となる。ファンファーレが出てきた後、テンポアップしてコーダに入り、輝かしくも賑やかに終盤を迎える。
(Hr. N. K.)

創設20周年記念特別演奏会プログラムノート

ベートーヴェン/「レオノーレ」序曲第3 番

一切の光も届かぬ秘密の地下牢、そこに無実の罪で投獄されているフロレスタンは、レチタティーヴォで悲痛な叫びをあげたのち、アリア「人生の春の日に」を歌う──ベートーヴェン唯一のオペラ『フィデリオ(レオノーレ)』第2 幕のこのような冒頭シーンをなぞるかのように、「レオノーレ」序曲第3 番の序奏でも、ユニゾンによるショッキングな強奏から、聴き手を地下深くへといざなうかのようなゆっくりとした下降音型ののち、このアリアの冒頭部分が引用される。ソナタ形式の主部の第2 主題にも使用されるこのアリアは、絶望の淵にあるものの嘆きとは思えないほど悲痛さとは程遠い温和で穏やかな音調にあふれているが、それはまさに自らの正義のために殉ずるというフロレスタンの高潔な精神を、ベートーヴェンが鋭い筆致で描き出したものにほかならない。
『フィデリオ』のストーリーはさらに以下のように進む──悪徳刑務所長ドン・ピッツァロの悪事を大臣に告発しようとして逆に囚われてしまったフロレスタン。その妻レオノーレは男装しフィデリオと名乗り、ピッツァロのもとで下働きをしながら夫を救出するチャンスを狙う。ピッツァロは大臣が刑務所へ視察に来る前にフロレスタンを殺してしまおうとするが、レオノーレは身を挺して夫をかばう。絶体絶命のその時、大臣の到着を知らせるトランペットが高らかに鳴り響き・・・かくしてピッツァロの悪事は暴かれ、フロレスタンの正義と、レオノーレの夫への愛が謳われ、歌劇は大団円を迎える──この、フロレスタンとレオノーレの窮地を救う「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」としてのトランペットもまた、序曲のちょうど真ん中に引用されている。序曲全体がオペラの第2 幕を凝縮し、予感させるような構造になっているのである。
演奏会の序曲として取り上げられることの多いこの「レオノーレ」序曲第3番だが、こうして劇中のアリアとファンファーレの意味を踏まえてみると、堂々たるハ長調の部分もいっそうの力強さをともなって響いてくるのではないだろうか。
(Perc. W. N.)

モーツァルト/ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調

ヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲
コンチェルト
風たちが奏づるよ水無月/永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』
モーツァルトをこよなく愛した永井陽子の歌。のっけから短歌の引用で恐縮だが、この曲は私にとってまさに「風」が舞う曲。風がさっと吹くように始まり、風に乗って空を飛んでいくような、のびやかで軽やかな曲である。
この曲はモーツァルト23 歳、1779 年の夏に作曲された。それはモーツァルトにとって、どのような時期だったのだろうか。
この2 年ほど前から、モーツァルトは旅に出ていた。アウグスブルク、ミュンヘンなどを経て、マンハイムとパリに滞在。安定した収入と就職先を求めての長旅だったが、これといった成功もなく、やりがいのある職も得られなかった。しかも、つきそってくれていた母が旅行中パリで病死。悲しみのうちにパリをあとにし、帰国途上で立ち寄ったマンハイムでは恋人の心変わりを知る。母の死と失恋という大きな挫折と喪失を経て、悄然とザルツブルクに帰ってきたのが、この1779 年1 月だった。
帰郷すると、モーツァルトは、父が用意したザルツブルクの宮廷オルガニストという新しい就職先におさまった。当時のモーツァルトの暮らしぶりは、姉や友人の日記に記録されているが、職務以外は散歩したり、友人と室内楽やカード遊びをしたり、平穏で刺激の少ない毎日だったようだ。
さて、そんなもぬけの殻のような時期であるが、当時の作品にはマンハイムやパリの影響が色濃くあらわれていると言われており、傑作も多い。
この協奏交響曲(シンフォニア・コンチェルタンテ)という形式自体、当時マンハイムやパリで流行していたものなので、この曲はモーツァルトの旅土産と言ってもよいだろう。「協奏交響曲」とは、複数の独奏楽器を擁した協奏曲のこと。それぞれの楽器の特性をいかした複数楽器の独奏とオーケストラの協奏は、聴いていてとても楽しい。
なお、モーツァルトはこの曲で、独奏ヴィオラに、半音階高く調弦する指示を残している。弦の張力を強くすることで音色を明るく華やかにするため、と言われているが、本日はこの方法を用いず、普通の調弦で演奏する。ヴァイオリンほどの明るさはないが、穏やかで優しい本来のヴィオラの音と、華やかなヴァイオリンの音の協奏を楽しんでいただきたい。
第1 楽章 Allegro maestoso
堂々とした第1 主題、牧歌的な第2 主題が演奏され、力強いコーダとなったあと、オクターブでふわりと浮き上がるように独奏楽器が登場。2
つの独奏楽器は、万華鏡のように少しずつ色を変えながら交互に歌い、活発な応酬を経て、最後は輝かしく集結する。
第2 楽章 Andante
深い憂いと悲しみをたたえた楽章。独奏楽器が慰めあうように対話する。途中少し光がさすが、すぐ短調に戻る。
第3 楽章 Presto
一転して快活なロンド。独奏楽器の丁々発止なかけ合いは、いたずらを競い合う子どものよう。いきいきと弾むように進んでいき、コーダで独奏楽器のかけ合いが頂点に達すると、曲は多幸感に満ちたまま華やかに閉じられる。
(Vn. S. H.)

シューベルト/交響曲第8(9)番ハ長調「ザ・グレート」

【番号】
シューベルトの7 番目以降の交響曲には、生前には番号が付与されず、番号の扱いが様々である。この交響曲は20 世紀初頭までは「第7 番」と呼ばれ、20 世紀半ばに作成された作品目録では9 番目、そして20 世紀後半に改定された目録では8 番目であり、国際シューベルト協会では「第8番」としている。現在では昔の通称との混乱を防ぐために「第9 番」との併記が多く、今回のプログラムでは「第8(9)番」と記載している。
【副題】
通称「ザ・グレート」と呼ばれている。シューベルトは他にもう一つハ長調の交響曲第6 番を書いており、後世になって区別するために「大きいほうの」ハ長調の交響曲と呼ぶようになったため、この呼び名がついた。
このようにもともとは第6 番に比べて大きいという程度の意味しか持っていなかったが、曲自体はその名にふさわしい曲想や規模を持っている。
指示通りに演奏すると1 時間以上かかる大曲であり、現代では珍しくないが、19 世紀前半においては通常想定される枠をはみ出た存在である。
【初演】
作曲は、1825 年頃と言われている。シューベルトはウィーン楽友協会へ提出したが、長すぎるとの理由で当時は演奏されなかった。
シューベルトの死後の1839 年に、その部屋を管理していたシューベルトの兄フェルディナントの元へシューマンが訪れ、自筆譜を確認した。そしてシューマンの友人メンデルスゾーンの指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって初演された。
【天国】
シューベルトは「歌曲の王」として知られている。この交響曲においても、全編に渡って美しい旋律を綴っている。シューマンは「天国的長さ」と評したが、単に長いのではなく、単なる繰り返しでもなく、美しい旋律が「天国のように」どこまでも続いているのである。その美しさをあげればきりがない。弦楽器はもちろんのこと、1 楽章・2 楽章の両楽章とも冒頭から2 フレーズ目を担当するオーボエ、2 楽章中間つなぎの部分のホルンなど。
特に同時代の他の曲に比べて目立つ点は、「神の声」とも言われるトロンボーンの多用である。天使となり悪魔となり、あらゆる箇所にその姿を現す。
【影響】
ベートーヴェンから影響を受けていることは想像に難くない。前年1824 年の作である交響曲第9 番からは、トロンボーンの活用、そして主題の引用など明らかな関連がある。一方、シューマンは自筆譜を確認した翌々年1841 年に交響曲第1 番を作曲、初演を指揮したメンデルスゾーンは翌年1840 年に交響曲第2 番を作曲しており、これらへの影響が想像される。
【楽章】
第1 楽章 Andante – Allegro ma non troppo
序奏は、遠くから鳴るホルンのユニゾンによるテーマから始まる。続いて木管、弦楽器と受け渡され、そしてトロンボーンを中心として最前面にテーマが押し出される。主部は付点のリズムによる主題、物哀しい主題、トロンボーンによって提示される力強い上昇音形の主題があり、それぞれに3 連符を絡めて構成される。
第2 楽章 Andante con moto
スタッカートを特徴とする動機を持つ主題A と、下降音形のレガートを主体とした主題B とによる、ABABA の形式である。1 回目の主題B から2 回目の主題A へのつなぎの部分のホルンは、シューマンが「天の使い」と評した美しさである。
第3 楽章 Scherzo Allegro vivace
同時代としては大掛かりな、スケルツォ楽章である。力強い主部とシューベルトらしい歌で綴られるトリオとで構成されている。
第4 楽章 Finale Allegro vivace
自由なソナタ形式によるフィナーレである。1 楽章と同じく付点のリズムと3 連符の組み合わせで構成される。天国的と称される交響曲の締めに相応しく、ソナタ形式を基本としながらスケールを大きくした構成となっている。ベートーヴェン交響曲第9 番の歓喜の主題を改変して引用しており、ベートーヴェンに対するオマージュと考えられている。
【今日】
ドイツ古典からロマン派を中心として活動してきたブルーメンの、20 周年の記念に相応しい曲である。指揮者を踊らせるような第3 楽章・第4
楽章は、第1 楽章・第2 楽章でじっくり旋律を歌った後でこそのものである。「ザ・グレート」という副題とは相反する、「短すぎる、まだ聴いていたい」という気持ちを、ホール全体に満たしたい。
(Hr. M. S.)

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