私は曲を聞いた時に「~って感じ」と勝手にイメージを抱くことが多い。
そのイメージは我ながら悲しくなるほど、へんてこなものが多く、人に話して賛同を得たことはほとんどない。
むしろ激しいブーイングを食らうことが多いので、あまり人には言わないようにしている。
ブラームスに関して言うならば、ある時まで私にとってブラームスのイメージは「エースをねらえ」という漫画のお蝶夫人だった。
漫画の中に、お蝶夫人が試合中に独白で「あたくしこそは孤独だわ」と心の葛藤をあらわにするシーンがある。
その時、観客席でその試合を見ていた尾崎は、隣にいる藤堂の腕をぎゅっとつかみ、「まったくぞくっとさせられる。
ああいうところが好きなんだ」と言う。
私がブラームスを聞いて「ぞくっ」とした時、真っ先にイメージしたのは昔読んだこの漫画の一節だった。 それ以来、私にとって、よく言われるところのブラームスの悲劇性と情熱は、お蝶夫人のそれになってしまったのである。
ブラームスに対して新しいイメージを持つきっかけになったのは、彼のピアノ間奏曲だった。
それを初めて聞いたのは今から4年前、ブルーメンの合宿の行き道、ヴィオラT氏の車の中でのことだった。 すさまじい渋滞に巻き込まれ、東大9時出発~河口湖着18時という計9時間の移動中、目を血走らせてハンドルを握るTの横で(4人のうちドライバーは彼ひとりだった)、暇をもてあました我々乗客3人は、車の中に持ち込まれた紙袋一杯のCD、スコアをあさっていた。 その時に偶然かけられたのが、グールド演奏のピアノ間奏曲であった。
その時の衝撃はたいへんなもので、東京に帰ってからすぐにCDを買い、幾度も幾度も繰り返し聞いた。今になっても飽きることがない。
間奏曲の冒頭の優しい旋律を聞く時、いつも思い出すイメージがある。
それは「いつもポケットにショパン」という漫画の、主人公がピアノを弾きながら昔の出来事を回想するシーンである。
彼女は弾く時、真っ先に「おばさまの手から零れ落ちるキャンディ」を想起する。
私が間奏曲を聞いて真っ先に想起したのも「零れ落ちる」ものであり、「零れ落ちるもの」に対するブラームスの優しい眼差しであった。
大きな不幸を経験することなく、幸せに暮らしていても、手から零れていってしまうものはたくさんある。
疎遠になってしまった人たち、守れなかった約束、幻滅して崩れてしまった理想など、私はすぐに忘れてしまう。
それは幸せなことかもしれないけれど、実は忘れたふりをしているだけで、心の中にはしこりとなって残り続けているのかもしれない。
それらは歪んだ形になって積み重なり、私の中にいくぶんかある温かい気持ちを蝕み、言動に影響を及ぼしているのかもしれない。
だからといって、零れ落ちてなくしてしまったものを取り戻すことはもう出来ないのだろう。
でも、この曲を聞いていると、それらをすくいとり、やすらかな形で心の中に葬りなおすことが出来そうな気がしてくる。