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2017年3月26日(日)14時開演
会場:第一生命ホール
指揮・チェロ独奏:桑田 歩
- モーツァルト/「 フィガロの結婚」序曲
- ハイドン/チェロ協奏曲 ニ長調
- シューマン/交響曲第2番 ハ長調

2016年12月11日(日) 午後14時開演(13時15分開場)
第一生命ホール
指揮:寺岡 清高
ヴァイオリン独奏:白井圭
- コルンゴルト/バレエ音楽「雪だるま」より序曲
- コルンゴルト/ヴァイオリン協奏曲
- ブラームス/交響曲第3番

20回記念演奏会でドイツレクイエムに取り組むにあたり、ドイツレクイエムの対訳を"ブルーメンのオリジナル"として取り組んできました。 少しでも曲への理解を深めるため、団員向けに逐語訳・聖書解説を用意し、少しでもいい演奏ができるよう、また20回の記念になる企画を、ということで、団員に配布した内容をHPでも紹介させていただきます。
内容的には個人的な解釈の部分もありますので、ご了承ください。
とうとう回ってきてしまった私とブラームスのリレーエッセイ。
記念すべき20回の演奏会で筆を持たせてもらえるということは、いわゆる「古株」になってしまった私に何かブルーメンとブラームス、そんなテーマで語れ、ということか。 実はブルーメンの始まりは、今回取り上げたドイツ・レクイエムに深く関係している。
JMJ(通称ジュネス)というNHKがスポンサーとなっている大学生を中心とした寄せ集めのオーケストラが平成3年のコンサートで「ドイツ・レクイエム」を演奏した。
ブルーメンの創始者であるオーボエ奏者は、メンバーを集める際に、そのコンサートで一緒になったメンバー何人かに声をかけたのだ。
あれから10年。当初から参加していた私としては20回記念でドイツ・レクイエムを演奏できることがとても感慨深い。
さて、私とブラームスというテーマで語るとすると、私にとってブラームスの曲は大切な人との別れを思いださせることが多い。
高校生の時、ピアノのレッスンで、ブラームスのラプソディの2番をやるからとブラームスのピアノ曲集を購入した。同じ本に入っていた3つの間奏曲をポロポロと弾いてみてとても衝撃を受けた。
ピアノの先生に「これを弾いてみたい」と勇気を振り絞って言ったが、「いい曲だけど、あなたにはまだ早いわねぇ。もっと年をとってから、弾いてみたら」とあっさり流され、とてもがっかりした。当時先生の家は自宅の目の前だったので、諦めきれず家で弾いていたら、次にレッスンに行ったとき「弾いていたのあなたね。」とニヤニヤされて気恥ずかしい思いをしたのをよく覚えている。
その後大学に入り、大学のオーケストラでビオラばかり弾いていたので、レッスンへ行く機会もなくなり、先生とも疎遠になってしまったが、卒業後しばらくして、先生の訃報を聞いた。今でも間奏曲を聴くと、古いアルバムを覘くように当事のことを思い出し、もう二度と先生にレッスンを見てもらうことはないのだ、と切ない気持ちになる。
ブルーメンのブラームスチクルス1回目は交響曲の1番だった。私はそれまでブルーメンの演奏会はなんと皆勤賞だったのが、演奏会直前に父を亡くしたため出演できなかった。このときのプログラムは、当時のことを思い出すので、今でも聴くのがつらい。目の前の現実によって受けた外傷は癒えても、心にぽっかり開いた穴は時間をかけてもなかなか埋まらないものだ、と思う。
それでもなお、ブラームスの音楽はいろんな思いを全て包み込むように優しく、心を癒してくれる。それは例えば、冬の夕暮れに父の病室の窓から家族揃って見た綺麗な黒富士や、ブルーメンの仲間と弾いたブラームスの室内楽の刹那的な充実感、といった私にとって幸せな風景や思い出を、彷彿とさせるからだろう。
仕事が忙しくて疲れている時など、気持ちがガサガサささくれだっている時には、ブラームスを聴いて、心に潤いを取り戻している。
「私とブラームス」というタイトルでエッセイを書くことになった。
私にエッセイを頼むくらいだから、このプログラムの編集者は、私が相当ブラームスに対して思い入れを持っていると考えているに違いない。
あるいは書いてくれる人が私くらいしかいなかったのかもしれない。
とにかく、ブラームスは割と好きな作曲家である。どのくらい好きかというと、自分のパソコンにbrahmsと名づけているくらいである。
なぜベートーヴェンにしないのかというと、つづりが難しいからである。たしか、beetoubenとつづったと記憶しているが、あまり自信がない。
これがロシアの作曲家となると最悪である。チャイコフスキーやショスタコービッチなど、もはや覚えることは不可能である(正確なつづりを知っている方はアンケートの余白にでもご記入ください)。当の本人たちも自分の名前を覚えられなかったかもしれない。つくづく自分がロシア人でなくて良かったと思っている。ちなみに会社でメインで使っているパソコンにはbachと名づけていて、とても気に入っている。バッハはかなり好きな作曲家だ。以前、schumannと命名していたパソコンもあったが、なぜか数年前に壊れてしまった。
ところで、普段クラシックをあまり聴かない一般の人(本日ご来場下さったお客様が異常な人だという意味ではございません)にとって、ブラームスという作曲家は我々が思っているよりもなじみが薄いらしい。すなわち、名前を聞いたことはあるけれども実際に曲を聞いたことのある人は少ないようである。
私の友達も同様で、ブラームスの演奏会に誘っても「運命とか新世界なら行くよ」などと、大抵はつれない返事がかえってくる。よしんば演奏会に来てもらって感想を聞いても、おおよそ「良かった」か「眠かった」の2通りの回答しか得られない。ひどいのになると、「おまえが目立ってたよ」とか「今度はイングウェイ・マルムスティーンとジョイントやってくれ」とかめちゃくちゃなことを言い出す始末である。とはいえ、吹奏楽少年だった私も、かつてはレスピーギの「ローマの祭」とかホルストの「惑星」のような血沸き肉踊る系の曲がもっぱらで、ブラームスなんて渋すぎて聴いていられんと思っていたから、あまり人のことは言えないかもしれない。それが今では、ブラームス・チクルスなんてやっているオケに在籍しているのだから、世の中わからないものである。
小さい頃は苦手だった食べ物や飲み物が、成長していくことで、次第にその味の良さや奥深さがわかるということがある。音楽もこれと同じようなものかもしれない。小さい頃は退屈で眠たいとしか思わなかったブラームスの曲も、恋愛や離別、嫉妬、などの経験を重ねることで、自分の人生とブラームスの音楽とが同調し、次第にブラームスの良さわかるようになるのだろう。私も入学や卒業、就職といった重大な人生経験を積み重ね、今ではブラームスのCDもよく聴くようになった。特に布団の中で横になって聴くとぐっすり眠ることができる。コーラとかドクターペッパばかり飲んでいた少年が、渋い番茶や苦いコーヒーもすするようなおっさんになったというところか。でも、いちばん好きなのはビールです。
寛容な大人でありたい、と思う。常にそういう気持ちが自分の内にあるのだが、もちろん実際にはその通りになど出来はしない。
以前、誰かと話をしていて、たまたま口論になり、内容は大した話ではなかったのだが、その口論の刺激のためか自分で驚く程涙が止まらなくなったことがあった。
話の相手にしてみれば、自分とはあまり関わりのないことで目の前で突然私が泣き出したのだからメイワクな話なのだが、こみ上げてくる気持ちの高ぶりをどうしても抑える事が出来なかった。
人は感情の生き物である。誰でも生きていればいつも様々な選択を迫られ、その度に自分なりの答えを出して形を整えてきたつもりでいても、感情は整えられるものではない。
ブラームスの音楽の根底には、理性ではどうにもならない感情のうねりが常に重々しく流れているように感じる。
それは深く暗い色彩を帯び、時に顔をもたげる優しいメロディーは諦めの声のようであり、また、溜息のようでもある。
そして、騎士道の精神に根付く力強さはどこかに弱さを内包し、寂しげである。 人は、年を重ねて大人になったつもりでいても、それは物のバランスのとり方を学んだだけで、本当は一生子供のままなのではないだろうか。いつも自由でいたい、何にも縛られずに生きたいと強く願いながらも、人々の愛と支えがなければ生きる意味は感じられない。 物事には限界がある。
しかし、その哀しみが充分すぎる程分かるからこそ人は優しくなれる。希望を手に邁進するのみである。
そのイメージは我ながら悲しくなるほど、へんてこなものが多く、人に話して賛同を得たことはほとんどない。
むしろ激しいブーイングを食らうことが多いので、あまり人には言わないようにしている。
ブラームスに関して言うならば、ある時まで私にとってブラームスのイメージは「エースをねらえ」という漫画のお蝶夫人だった。
漫画の中に、お蝶夫人が試合中に独白で「あたくしこそは孤独だわ」と心の葛藤をあらわにするシーンがある。
その時、観客席でその試合を見ていた尾崎は、隣にいる藤堂の腕をぎゅっとつかみ、「まったくぞくっとさせられる。
ああいうところが好きなんだ」と言う。
私がブラームスを聞いて「ぞくっ」とした時、真っ先にイメージしたのは昔読んだこの漫画の一節だった。 それ以来、私にとって、よく言われるところのブラームスの悲劇性と情熱は、お蝶夫人のそれになってしまったのである。
ブラームスに対して新しいイメージを持つきっかけになったのは、彼のピアノ間奏曲だった。
それを初めて聞いたのは今から4年前、ブルーメンの合宿の行き道、ヴィオラT氏の車の中でのことだった。 すさまじい渋滞に巻き込まれ、東大9時出発~河口湖着18時という計9時間の移動中、目を血走らせてハンドルを握るTの横で(4人のうちドライバーは彼ひとりだった)、暇をもてあました我々乗客3人は、車の中に持ち込まれた紙袋一杯のCD、スコアをあさっていた。 その時に偶然かけられたのが、グールド演奏のピアノ間奏曲であった。
その時の衝撃はたいへんなもので、東京に帰ってからすぐにCDを買い、幾度も幾度も繰り返し聞いた。今になっても飽きることがない。
間奏曲の冒頭の優しい旋律を聞く時、いつも思い出すイメージがある。
それは「いつもポケットにショパン」という漫画の、主人公がピアノを弾きながら昔の出来事を回想するシーンである。
彼女は弾く時、真っ先に「おばさまの手から零れ落ちるキャンディ」を想起する。
私が間奏曲を聞いて真っ先に想起したのも「零れ落ちる」ものであり、「零れ落ちるもの」に対するブラームスの優しい眼差しであった。
大きな不幸を経験することなく、幸せに暮らしていても、手から零れていってしまうものはたくさんある。
疎遠になってしまった人たち、守れなかった約束、幻滅して崩れてしまった理想など、私はすぐに忘れてしまう。
それは幸せなことかもしれないけれど、実は忘れたふりをしているだけで、心の中にはしこりとなって残り続けているのかもしれない。
それらは歪んだ形になって積み重なり、私の中にいくぶんかある温かい気持ちを蝕み、言動に影響を及ぼしているのかもしれない。
だからといって、零れ落ちてなくしてしまったものを取り戻すことはもう出来ないのだろう。
でも、この曲を聞いていると、それらをすくいとり、やすらかな形で心の中に葬りなおすことが出来そうな気がしてくる。
皆さんは何か一つの曲を聴いて、「あ、この曲は××色だ」なんて思ったこと、ありますか?
私の場合、なじみのオーケストラ曲はたいてい”色つき”です。 でもそのほとんどは、理由のよくわからない色づけで、たとえばチャイコフスキーの交響曲5番は「青」、モーツァルトの25番は「金色」という具合です。 『英雄』→闘い→流血、という極めて短絡的な発想から、ベートーヴェンの交響曲第3番は「赤」、という例もありますが。
ではブラームスの交響曲は、というと、これらもはっきり”着色”されていて、第1番から順に、白、黄、赤、みずいろです。 これも、何気なく出来上がっていた配色のはずだったのですが、実は4曲に対して私が抱いている別のイメージと見事に対応していることに最近気づき、我ながら目の覚める思いでした。 というのも私には、ブラームスの第1番~第4番は、春夏秋冬という季節の流れにそのまま重なるように思えてならないのです。 まず第1番、これは春の訪れです。雪解けの1楽章で始まり、4楽章では新しい生命の誕生に対する喜びが爆発、といった感じでしょうか。 第2番はさわやかな初夏。冒頭の低弦は波の音で、ホルンのあとの高らかなフルートはきらめく太陽光線です。 第3番は木枯らしの吹きすさぶ晩秋。第4番は厳寒の冬です。そして先ほどの4色ですが、白は雪を、黄は輝く太陽を、赤は夕焼けと紅葉を、みずいろは透明な氷を象徴しているというわけです。
こんな風に一度覆いこむと、他にもどんどんこじつけができてしまうからおかしなものです。 例えば、第2番3楽章のオーボエのメロディーは大輪の向日葵(ひまわり)に思えてくるし、第4番の4楽章は変奏曲だから、似てはいるけれどもどれも少しず つ違う雪の結晶にも通じるな、なんて。 でも、これらのイメージは完全に私のひとりよがりなのは言われるまでもなく明らかで、その証拠に、第1番の雪解けは私の故郷に近い立山連峰のそれが想定さ れているし、第3番の2楽章を聴くと、夕暮れ時に私の田舎の田園地帯を赤とんぼが飛び交う光景が浮かんでくるのですから。 それに、ドイツ人のブラームスがこんなに日本的な季節感を持ち合わせていたとも思えませんし。 巷で言われている、第2番=「田園交響曲」というのと、私の「夏の海辺」といのも、なんだか大違いです。ただ2番に関しては、ブラームスが夏の避暑地の湖 畔でインスピレーションを得て作曲したことを知り、「あながち的外れではないかも」などと一人で喜んでいる私です。 でも、ひとつの曲をめぐってもさまざまな思い入れを持った人たちがいて、その人たちがそれぞれに集まってさまざまな演奏をするから、音楽って楽しいんじゃ ないでしょうか。
皆さんのブラームスは、何色ですか?
「ピアノ四重奏曲第1番 ト短調」 (Vn. T.S)
好きな曲,思い入れのある曲は多数ありますが,好きな作曲家といえば,昔から断然モーツァルトとブラームスです。 ブラームスとの出会いは,幼少の頃,ハンガリー舞曲集をLPで聴き,家族で連弾したことです。 今でも,曲の中でLPが針飛びする場所,楽譜の配置まで思い出されるほど記憶が鮮明です。 私にとって,ハンガリー舞曲が唯一のブラームスでした。 今思えば,それはブラームスのほんの一面でしかなかったのですが。
こういう私を,ブラームスの世界へ一気に押し出したのが,大学1年の時にアマチュアの演奏で聴いた「ピアノ四重奏曲第1番 ト短調」です。ブラームスへの第1歩のみならず,何も知らなかった私にとって,室内楽の海への第1歩でもあったのです。これをきっかけに,ブラームスの室 内楽曲のCDを買いあさったものでしたが,一度で良いから,この曲を自ら演奏したいと思い続けていました。
その機会は,意外と早くきたのでした。 この曲に出会ってから1年後,ある合宿で,盲目のアマチュアピアニストと,この曲の4楽章を演奏する場を頂いたのです。 彼は,怒涛のごとく弾き始めました。目が見えないというハンディを全く感じさせず。 ハンディどころか,通常のアマチュアより上手で,完璧な演奏でした。 私自身は,引きずられるように演奏し,わけのわからないうちに終わってしまいました。 夢の曲のわりに,自分の演奏は御粗末でしたが,いろいろな意味で感動と衝撃の瞬間でした。
私は大学生になるまで,楽器を練習することの苦痛をあまり感じませんでしたが,同時に,特に楽しいわけではありませんでした。この曲は,自分に別の音楽人生のきっかけをつくってくれた曲,演奏することの喜びを与えてくれた曲です。 この曲に出会っていなかったら,今こうして,ブルーメンフィルハーモニーで楽器を弾いていることもなかったかもしれません。
2012年2月1日、ゲルハルト・ボッセ先生が逝去されました。
これまでのご指導に深く感謝するとともに謹んで哀悼の意を表します。
ブルーメンフィルは、2005年以来4回、ボッセ先生に指揮していただく機会に恵まれました。 昨年9月の第36回定期演奏会のブルックナー4番がボッセ先生との最後の演奏会となってしまったことは非常に残念ではありますが、リハーサルや本番を通し、本当にたくさんのことを教えていただいたことは当団にとって、団員にとって貴重な財産です。
先生に伝えていただいた多くのことを胸に、今後も演奏を続けてまいります。
ボッセ先生の安らかなお眠りを心からお祈り申し上げます。
ブルーメンフィルハーモニー 団員一同
これまでのボッセ先生との演奏会記録より
- ゲルハルト・ボッセ氏インタビュー(26回プログラムより)
- 第36回定期~巻末にボッセ先生による特別寄稿~ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲/ブルックナー:交響曲第4番
- 第32回定期メンデルスゾーン:序曲「静かな海と楽しい航海」/モーツァルト:交響曲40番/シューベルト:交響曲第2番
- 第29回定期J.C.バッハ:シンフォニア ト短調 op.6-6/ベートーヴェン:交響曲第2番/モーツァルト:交響曲第39番
- 第26回定期メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」序曲/ハイドン:交響曲第100番「軍隊/ベートーヴェン:交響曲第1番
マーラー:交響曲第8番 変ホ長調 『千人の交響曲』
2016年5月5日[木・祝] 13:30ロビー開場 14:30開演
東京芸術劇場コンサートホール
指揮:ジェフリー・リンク Jeffrey Rink
管弦楽:ブルーメン・フィルハーモニー Blumen Philharmonie
オルガン:新山恵理 Eri Niiyama
独唱:
第1ソプラノ 國光ともこ Tomoko Kunimitsu
第2ソプラノ 朴瑛実 Terumi Boku
第3ソプラノ 見角悠代 Haruyo Mikado
第1アルト 増田弥生 Yayoi Masuda
第2アルト 清水華澄 Kasumi Shimizu
テノール 望月哲也 Tetsuya Mochizuki
バリトン 大井哲也 Tetsuya Oi
バス 青山貴 Takashi Aoyama
合唱:新星合唱団、東京オラトリオ研究会、東京ライエンコーア、小平コーラス・アカデミー、立川コーラス・アカデミー
児童合唱:FCT郡山少年少女合唱団、オーケストラとうたう杜の歌・こども合唱団、
多摩グリーンロタキッド・クラブ、三鷹中央学園三鷹市立第三小学校合唱団
合唱指導:郡司博、渡部智也、内藤裕史、渡部昌之、津上佳子、鈴木直人、小林莊子
2015年12月5日(土)18:30開演(17:45開場) 杉並公会堂 大ホール
指揮:武藤 英明
- ウェーバー/「魔弾の射手」序曲
- シューベルト/交響曲第5番
- ドヴォルザーク/交響曲第8番
ウェーバー/歌劇「魔弾の射手」序曲
ドイツに生まれ、父の率いる歌劇団で各地を巡る幼少期を過ごしたウェーバー。13 歳にしてオペラを作曲し、17 歳のときには劇場の楽長に就任、とその才能は早くから開化。その後、プラハの名門歌劇場の指揮者に就任し、傾きかけていた歌劇場を見事に再興させ、ドレスデン歌劇場の音楽監督に抜擢される。ピアノ奏者でもあり、身体は小柄だったが10 度の和音をとらえる長い指を持ち、素晴らしい演奏技術を誇った。
さて、イタリアオペラが主流だった19 世紀初頭のヨーロッパ。そんな中に登場した、ドイツ人による、ドイツ語を使った、ドイツを舞台とし、ドイツの人々に古くから読まれてきた民話が元になっているウェーバーの歌劇「魔弾の射手」。
舞台は深い森―。主人公・狩人のマックスは、恋人アガーテと結婚するため、射撃大会に出るも、一発も命中しない。そんな様子を見たアガーテの父から、明日の射撃会の結果次第ではアガーテとの結婚を認めないと言われる。
悪魔と契約し、アガーテを生け贄にしようと企てていた狩人のカスパール。カスパールはマックスをそそのかし、明日の大会で魔弾の力に使うよう仕向ける。マックスは迷ったが、7つの魔弾を造り大会で使うことに。
翌日の射撃大会。6発は的に的中。7発目をマックスが撃ったとき、その弾はアガーテに!!…と見せかけて、カスパールに命中。
事の真相を打ち明けたマックスは永久追放の処分が下されるが、聖なる隠者の助言により1年間の試練を与えられ、行いが正しければアガーテとの結婚を許されることに。
いつの時代もハッピーエンドとホルンは愛されるものなのでしょうか。日本の童謡「秋の夜半」(あきのよわ)でも使われている冒頭のホルンの旋律。何度聞いてもしびれます。
(Tp. N. I.)
シューベルト/交響曲第5番 変ロ長調
交響曲第5番が作曲された1816 年は、19 歳のシューベルト(1797-1828)にとって大きな転機となる年であった。それまで勤めていた父親の学校での教職を辞し、音楽に生きることを志したのである。当時はまだ出版社から楽譜が出ることもなかったシューベルトを、友人たちは衣食住にわたり惜しみなく援助した。そのおかげでシューベルトは次第に作曲のみに専念するようになり、彼らの家では私的な演奏会が夜ごとに開かれた。
半年ほど前に作曲された交響曲第4番「悲劇的」のドラマチックなメロディーとは打って変わり、この第5番ではシンプルで軽快なリズムやフレーズが印象的である。オーケストラ編成の小ささ、調性の展開、それに個々のフレーズ等、多くの点でモーツァルトとの類似性が指摘されている。シューベルト自身がおそらく意図して、敬愛するモーツァルトへのオマージュとして作曲したのであろう。
実際、シューベルトが同年にモーツァルトの弦楽五重奏曲を聴いた日の日記では、以下のようにモーツァルトを絶賛している。「おお、モーツァルト! 不滅のモーツァルト! どれだけ多くの、おお、どれほど尽きることのない、軽やかでより良い生の刻印を、慈悲深くも我々の魂に刻み付けたことか!」
第1楽章 Allegro 変ロ長調、ソナタ形式
シューベルトの交響曲では初めて緩徐な序奏が存在せず、管楽器による4小節のカデンツのみが導入部である。5小節目から提示される第1主題は、軽快なスタッカートのリズムを伴った上昇形の分散和音であり、楽章を通じたモチーフとなっている。通常のソナタ形式とはやや異なり、再現部では変ロ長調の下属音である変ホ長調で主題が演奏される。
第2楽章 Andante con moto 変ホ長調、ロンド形式
歌曲のような甘美な主題が2回提示されるや否や、変ハ長調へと転調する。この転調はシューベルトの作品に特徴的なものであり、単にモーツァルトの模倣をしているわけではないことがうかがえる。その後も転調を繰り返し、ロ長調、短いながらも印象的なト短調を経て変ホ長調に戻る。
第3楽章 Menuetto. Allegro molto ト短調
シューベルトの他の交響曲のメヌエットとは趣の異なる、スケルツォ風の楽章。むしろ、モーツァルトの交響曲第40 番の第3楽章との類似がしばしば指摘される。ト長調のトリオは全体として穏やかで、低弦楽器の持続音により、どこか田園的な印象も漂う。
第4楽章 Allegro vivace 変ロ長調、ソナタ形式
楽章を通して舞曲のような軽快なモチーフで構成されており、こちらはハイドンの交響曲との類似性が指摘されている。
(Cb. K. W.)
ドヴォルザーク/交響曲第8番 ト長調
ドヴォルザークは、後期ロマン派のチェコの作曲家であり、スメタナと並びチェコ国民楽派の代表格とされる。ブラームスに才能を認められ国際的な人気作曲家となったこと、その後アメリカに渡り活動し、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を作品に吸収したが、郷愁に駆られ帰国したことは、逸話として有名である。
一般的にドヴォルザークの作曲家としての特色は、ブラームスとともに標題音楽の支配する新ロマン主義の19 世紀後半において、「古典的な絶対音楽の形式を重んじながら、民族的な要素を結び付けたこと」が挙げられるが、一方でオペラや交響詩にも背を向けず、歌曲・宗教曲等、広範囲な創作を残している。どのような背景の中で、独自の作風を醸造させて行ったのか、生い立ちを追ってみたい。
―1841 年プラハの北部、北ボヘミア地方に生まれる。生家は肉屋と宿屋を営んでいたが、父はツィターを演奏し、民族音楽が周囲にある環境で育つ。小学校に通い始めヴァイオリンの手ほどきを受けると、アマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始めたが、父親は家業を継がせるつもりであったため、12 歳で伯父の住むズロニツェという町へ肉屋の修業に行かせてしまう。ところが、この町の職業専門学校の校長は、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の
作曲も行う人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏の他、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えることとなった。
その後、経済的な理由により、父親はドヴォルザークを退学させ家業を手伝わせようとしたが、伯父の援助により、16 歳でプラハのオルガン学校へ進むこととなる。
19 歳で卒業すると、ホテルやレストランで演奏する楽団のヴィオラ奏者を経て、新しく建設された国立劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となる。この頃よりモーツァルト、ベートーベン、シューベルトの技法を学び、室内楽・交響曲の作曲を始めるが、楽団員として実地の音から学び、独学で作曲技術を獲得していく。
またオペラの分野についても、オーケストラピットの中でチェコ国民オペラの誕生に立ち会う中で、創作意欲を高めていく(1866 年には国民劇場にスメタナが指揮者として着任、歌劇「売られた花嫁」の初演には、ヴィオラ奏者として参加している)。ただし、専ら興味を覚え、影響を受けたのはワーグナー作品であった。
作曲に専念するために劇場の職を辞したのは30 歳のときであり、その後、33 歳で教会オルガン奏者の職を得、さらにオーストリアの国家奨学金を受け、金銭的に余裕もできる(当時ボヘミア地方が政治的にハプスブルク帝国の属国下にあり、チェコ人も奨学金の適用対象となった)。
何より、審査員であったブラームスの知遇を得たことの影響が大きく、作風の面でもワーグナーの影響からも脱していく。以後、ドヴォルザークはブラームスの支援を受け、国際的な作曲家としての一歩を踏み出すこととなる。かくして、円熟期のドヴォルザークは、ベートーベン、シューベルトなどの古典音楽に育まれた音感の上に、夢中になったワーグナーの語法、ブラームスから直接学んだドイツ音楽の構成法、幼児(幼時?)から身に着けた民族的な舞曲や民謡の色彩感、それらのものを渾然と消化していったのである。
本日演奏する交響曲第8番は、多忙な音楽家として活躍するなか、1889 年48 歳の夏から秋にかけて、別荘の田園生活のなかで構想を得て作られた。ブラームスの模倣から距離を置き、独自のボヘミア色に溢れている。
1890 年2 月2 日プラハでの初演は、ドヴォルザーク自身によって行われ大成功を収めた。
第1楽章 Allegro con brio ト長調
チェロによる短調の美しい序奏で始まり、フルートによる第1主題から主部となる。副主題は2
つあり、展開部、再現部を経て、最後はト長調で明るく終わる。
第2楽章 Adagio ハ短調
弦のやわらかい旋律で始まる。不規則な三部形式をとり、随所に小鳥の鳴き声のようなフレーズ
が現れる。最後は明るくハ長調で終わる。
第3楽章 Allegretto grazioso ‒ Molto vivace(加えてOK ?) ト短調
美しい旋律で始まるワルツ風の舞曲。中間部の旋律は、歌劇「がんこな連中」からとられたもの。
ト長調・4拍子となる力強いコーダもまた同じ素材をもとにしている。
第4楽章 Allegro ma non troppo ト長調
主題と18 の変奏。トランペットの輝かしい序奏に続いてチェロが主題を奏でる。変奏曲を交響曲の終楽章に持ってくることは、ドヴォルザークの交響曲の中ではこれが唯一である。
(Va. H. S.)
パリー/ブラームスへの哀歌
英国の作曲家というと、多くの場合ホルストやエルガーを思い浮かべるであろう。しかしパリーについて調べてみると、彼らに引けをとらぬ偉大な功績を残していることがわかる。
1848 年に生まれたパリーは、若かりし頃保険会社として知られるロイズに勤務していたが、1884年にロンドン王立音楽大学の創立と同時にその教授に迎えられ、1894 年には学長に就任、その後オックスフォード大学音楽科の教授も兼務。ヴォーン・ウィリアムズやホルストらを育てた教育者であるとともに、その力強い作風はエルガーにも影響を及ぼしており、近代イギリス音楽界の礎を作った作曲家であると言えよう。
彼は5つの交響曲、ピアノ協奏曲、多くの室内楽曲や声楽曲、音楽に関する数々の著作や論文を残している。ワーグナーと親交があったものの、その作風はドイツ・ロマン派においても特にブラームスの影響を受けたとされる。実際に、交響曲の5番を聴いてみると、やはりその響きは純粋なイギリス音楽ではなく、ブラームスの面影が多くの場面で感じられる。また晩年の作品であるオルガン伴奏による聖歌「エルサレム」は、エルガーの編曲によるオーケストラ伴奏版が、ロンドンで毎年開催される「プロムス」の最終夜に国家とともに必ず演奏されており、英国では誰もが知る彼の代表作である。
そして本日演奏する「ブラームスへの哀歌」は、彼が最も尊敬していたブラームスが没した1897年に作曲されたもので、特に展開部におけるクラリネットによる美しい旋律や、ドイツ的ともイギリス的ともとれる、終結部の響きが印象的である。なお、本作品はパリーの生前に演奏されることはなく、1918 年の彼自身の追悼コンサートにおける演奏が初演となった。 (K. T.)
ダルベール/チェロ協奏曲 ハ長調
「オイゲン・ダルベール(Eugen d’Albert)」とは、不思議な名前である。彼はスコットランドで生まれ育ったというが、「オイゲン」という響きはいかにもドイツ風、「d’Albert」というつづりはいかにもフランス風である。ドイツ音楽の演奏で名演を残した大ピアニスト、ウィルヘルム・バックハウスが師事したのが他ならぬダルベールであるが、ではそのダルベールが書いた音楽とは?ドイツ的なものを体現した作品なのだろうか?否、スコットランドで生まれたフランス風の名前の人間が、緊密な構成の曲を書くのだろうか?気になるところであるが、彼のチェロ協奏曲に触れる前にまずはその生い立ちを紐解いてみよう。
ダルベールは1864 年にスコットランドのグラスゴーに生まれた。作曲家である父はドイツ生まれのイタリア系フランス人、母はイングランド人である。幼少期から独学で音楽を学んだ彼は神童と称され、ロンドン王立音楽院に入学した。奨学金を得てウィーンに留学した1881 年にはハンス・リヒターの紹介でフランツ・リストに出会い、翌年からワイマールでリスト門下となる。その後、ピアニスト・作曲家として活躍し、1932 年に67 歳で亡くなった。ドイツ移住後に彼はドイツの文化、音楽に親和性を感じ、自らをドイツ人であると宣言した。私生活では6度の結婚を経験するという波乱に満ちた生涯だったようで、強烈な個性と激情を秘めた人物像が浮かんでくる。
ピアニストとしての彼は幅広いレパートリーを持ち、 中でもベートーベンやリストの評価が高かった。師であるリストのみならず、ブラームスもその才能を認めていたという。劣悪な音質ではあるが、彼が演奏したベートーベンやリスト、ショパン、さらには彼にとっては現代音楽であったドビュッシーの録音が今に残されている。作曲家としての彼は多産であった。現在では演奏される機会は少ないが、交響曲や協奏曲を含むピアノ曲、室内楽や歌劇など多くの作品を残している。彼の唯一のチェロ協奏曲は1899 年に作曲され、名チェリストのフーゴ・ベッカーに献呈された。今日では演奏機会が減ってしまったが、かつてはチェリ
ストにとって重要なレパートリーであったという。
この作品は全曲が切れ目なく演奏される形をとっており、シューマンのチェロ協奏曲からの影響をうかがわせる。曲はまずAllegro moderato で始まり、独奏チェロの分散和音を背景にオーボエが魅力的な旋律を歌い始める。この第1主題はクラリネットに引き継がれた後、ようやく独奏チェロに渡される。
この協奏曲が、独奏の技巧に焦点を当てるというよりは、独奏とオーケストラを一体として扱うという性格を有していることがこの冒頭部分から早くもわかるだろう。中間部のAndante con moto は別世界の音楽である。夢見るような旋律を、またしても独奏者に先立ってオーケストラが提示するところから始まる。曲想は次第に盛り上がり、上昇への意思を見せるような音階の連続、そして沈潜。音楽はtranquillo となり、天上に昇華するようなフレーズが奏されると、突如Allegro vivace に突入する。嵐のような音楽が過ぎ去ると全曲の冒頭部分が回帰し、力強く全曲を締めくくる。
彼の生い立ちに由来しているのだろうか、筆者はこの作品に(切れ目なく演奏されるという点以外にも)シューマン的な要素やイギリス音楽の要素など様々なものを感じる。皆さんはどうお感じになるだろうか? 本日の演奏を楽しみにしていただきたい。 (M. Y.)
ブラームス/交響曲第1番 ハ短調
「僕の交響曲は長ったらしくて、その上ちっとも愛すべき作品ではないんだよ」(カール・ライネッケへの手紙より)
ブラームスの最初の交響曲は、20 年以上に及ぶ構想から産み出されたものであることはあまりにも有名である。
北ドイツ(当時の国名は「プロイセン」)の港町・ハンブルグの貧民街に生を受けたヨハネス・ブラームスは、弱冠ハタチにしてシューマンの熱烈な歓迎とプレッシャーを受けつつも、「ドイツ(語の)・レクイエム」により国内外の知的階級の期待に応えた(33 歳)。「ハンガリー舞曲集」の興行的大成功を経た1872 年には39 歳の若さでウィーン楽友協会の芸術監督に就任していることからも、社会的にも経済的にも充分な地位を得た稀有な音楽家となっていたことがうかがえる。
「長すぎる」作曲期間にまつわるエピソードがあまりにも有名であり、楽聖・ベートーヴェンが打ち立てた「交響曲」という名の金字塔に相対する精神的闘
争や、苦悩からの勝利・解放へ、といった先入観とともに語られがちなこの曲だが、実際に通して聴いて(演奏して)得られる印象はやや異なったものである。
既に楽壇において揺るぎない地位を占めていた青年ブラームスにとって(写真参照)、交響曲の発表は「満を持して」のものであったに違いない。
第1楽章
冒頭、全管弦楽(in Es ホルン2本、トロンボーン除く)により開始される序奏(Un poco sostenuto)では、ティンパニ、コントラバス、コントラファゴットによるC 音の連打が印象的であるが、弦楽器の上昇進行と木管楽器の下降進行とがぶつかり合う緊張感もまた推進力となっている。Allegro となる主部ではヴァイオリンに第一主題が出るが、次第に運命的な動機「タタタ・ター」の支配力が強くなる。
コーダではやや速度を落としながらも序奏よりはやや早く(Meno allegro)、長調に転じた第一主題が穏やかに結ばれる。初演当初、コーダは冒頭と同じくpoco sostenuto であったが、あまりにも「遅く」演奏されてしまうことを恐れ、速度記載が変更されたという。なお、この楽章の草稿は1862 年の段階でシューマン未亡人(嫌な言葉だが)クララに送られている。
第2楽章
柔らかくあたたかいホ長調。哀愁を纏うオーボエによって謳い上げられる旋律を、クラリネットがたゆたいながらも受け流すが、ついには交響曲史上前代未聞ともいえるオーボエ、ホルン、さらには独奏ヴァイオリンのトリオ・ソロによる直球勝負となる。愛するもの、あるいはかつて愛したものへの憧憬、か。
第3楽章
変イ長調。メヌエットでもスケルツォでもないun poco Allegretto e grazioso。前楽章に続きつつも、ややそっけない「うつろい」がたまらない。
第4楽章
弦楽器によるピッチカートが特徴的な序奏に続き、アルプホルン(アルプスの角笛)に由来するとされる雄大なホルンの旋律が現れる。歌はフルートに引き継がれ、ここまで温存されてきたトロンボーンによるコラールの響きを導く。人間目線から 「聖なるもの」 への遷移だろうか。続いて第九『歓喜の歌』 主題をまざまざと想起させる主題が導かれ、ベートーヴェンとの比較を確信犯的に聴き手に強いる。コーダではコラールが再現され、力強く曲を閉じる。
頑迷とも捉われかねないほどに徹底された構成美と、あこがれの発露とも思える剥き出しの感情とが等しく内包され、対立しつつも高次元に昇華された作品であるとは言えないだろうか。
「彼は人間を愛し、また求めていましたが、他人が彼を求めたときには自分の殻に閉じこもってしまうのです。彼は与えることが好きでしたが、自分に対する要求や期待は撥ねつけました」(シューマン夫妻の遺児、四女・オイゲーニエによるブラームスへの回想より)
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かつてブルーメンでは第12 回( 1998年) ~ 17回定期( 2000年) の4回にわたり「ブラームスチクルス」と銘打って演奏会を行い、その後もドイツ・レクイエム、管弦楽曲のほか、「2番」「4番」は再演の機会にも恵まれた。創立20 周年には幸いにもベートーヴェンの「第九」をとりあげることもできた。当時のチクルスを経験したメンバーは約15 年を経た今も少なくなく、かつ、多くの新しい仲間を迎えたオーケストラとしてこの曲をふたたび演奏できることは極めて喜ばしい。「いぶし銀」などと称されることもある彼の作品には、確かに若かりし頃には気づけなかった「なにか」が含まれているようだ。斜に構えがちな若者はそのような「容易に解釈できないもの」に惹かれるのかもしれない。いまやすっかり「第1番」作曲当時のブラームスと同年代となり、「お○゛さん」の呼称をもはや免れられない者として、「与えられた」音符に刻み込まれたものをそれぞれの「想い」として表現できれば幸いである。
参考文献 ・新潮文庫 カラー版 作曲家の生涯『ブラームス』 三宅幸夫
・音楽之友社『ブラームス、4つの交響曲』 ウォルター・フリッシュ(天崎浩二/訳)
(I. T.)
2015年8月1日(土)18:30開演(17時45分開場) 第一生命ホール
指揮:角田 鋼亮
チェロ独奏:中木 健二
- バリー(Parry)/ブラームスへの哀歌 (Elegy for Brahms)
- ダルベール(d'Albert)/ チェロ協奏曲
- ブラームス/交響曲第1番
C. P. E. バッハ生誕300 年記念、ラモー没後250 年記念
ラモー/歌劇「ナイス」より序曲、シャコンヌ
ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)はJ. S. バッハ(1685-1750)やヘンデル(1685-1759)と同時代に活躍した後期フランス・バロックの巨星である。1722年に音楽理論書として『和声論』を発表し、その2年後には「クラヴサン曲集」を発表して音楽理論家およびクラヴサン(チェンバロ)奏者としての地位を確立した。1733年、齢50にして初めて上演したオペラ「イポリートとアリシ」は大成功をおさめ、以後81歳で没するまでに実に30もの作品を発表し、フランス・バロック・オペラの黄金時代を築いた。
「ナイス」はその中では15番目の作品にあたり、1749年にパリで初演された。スコアに「平和のためのオペラ(opéra pour la paix)」と記されており、オーストリア継承戦争の終結を祝うための曲とされている。ラモーの得意とする悲劇とはまったく異なる「英雄牧歌劇(pastorale héroïque)」のスタイルで作曲されたこのオペラは非常に寓話的で、例えばプロローグでタイタンに勝利するジュピテルなどは、ルイ15世の象徴だといわれる。
さて、ラモーの魅力は何といっても「音遊びの楽しさ」にあるように思う。細かい音の一つ一つに意味があり、うまく鳴らせば、まるで楽器が、そしてオーケストラ全体が生き物であるかのような響きが生まれる(まさに音で「生き物」を表現するような効果のあるシーンも)。本日お届けする序曲とシャコンヌでも、弦楽器、オーボエ、トランペット…楽器ごとの特性と違いを効果的に用いた楽しい表現が随所にちりばめられているので、ぜひ、耳と集中力を研ぎ澄まして楽しんでいただきたい。
今年で没後250年という一つの記念年を迎えるラモー。日本での演奏機会はまだ決して多いとはいえないが、本日の演奏によってラモーの持つ優雅さ、コミカルさ、お茶目さ、様々な魅力を感じ取っていただけたら幸いである。
(Vn. G. Y.)
C.P.E.バッハ/管弦楽のための交響曲 ヘ長調
管弦楽のための交響曲(シンフォニア)ヘ長調Wq. 183/3(H. 665)は匿名のパトロンの依頼により1776 年に作曲され、1780 年に出版された作曲家後期の作品である。C. P. E. バッハの初期の頃の作品はイタリア様式の器楽曲が多い。また、作曲当初は弦楽器での合奏のために作曲され、後になってバッハ自身がトランペットやティンパニなどのパートを加えたものがある。パートの構成としては、ヴァイオリンはほとんどユニゾンで旋律を奏で、時にセカンド・ヴァイオリンが三度下の音でファースト・ヴァイオリンを支えるくらいであった。また、ヴィオラは通奏低音(チェロやコントラバスなどの低音声部)の旋律の1 オクターブ上を奏でる形で曲全体が作られていた。これに対し、後期の交響曲の特徴としては、上声部と内声部のそれぞれが独立したパートとして通奏低音に支えられる構成が多く、木管楽器のオブリガートパートも作曲時から曲に組み入れられている。これはバッハが、1770 年頃の新しい音楽様式の流行を取り入れたことを意味する。また、通奏低音のパートについては、後期の作品になるにつれて、旋律を支える単純な役割から、独立したパッセージを持つ声部へと変化していった。
シンフォニアWq.183/3 は、急-緩-急という構成を持つ、当時の北ドイツ地方でよく用いられた3 楽章の形式で書かれている。主題である旋律に、ヴァリエーションが加えられていく形で各楽章が展開されていく。第1 楽章は、弦楽器による力強いユニゾンで始まり、ヴァイオリンから通奏低音までが、走るように細かい16 分音符を奏でる。主要テーマは、ヴァイオリンや木管楽器による静かな旋律を間に挟みながら4 回繰り返される。どこかメランコリックな第2 楽章のラルゲットは、ヴィオラとチェロが互いに慰め合うようにメロディーを奏でることで始まり、それに他のパートが徐々に追従するように旋律が増えていく。楽章の最後はその憂いが漂い、それが解決しないまま第3 楽章の明るいプレストへ移り変わる。
第3 楽章においては、軽やかな旋律が始まるや否や、ダイナミックに2 つ目のテーマが登場する。転調やヴァリエーションを加えながら、最後は力強いユニゾンで幕を閉じる。
Wq. 183 として知られる4 つの交響曲は、バッハの死後、19 世紀から20 世紀にかけていく度も復刻版が出版されている。そしてこれらは、モーツァルトやハイドンによる作品を除き、18 世紀の交響曲としては珍しく、作曲家の生前から私たちが生きる現代まで広く演奏され続けている。
(Vn. N. S.)
C.P.E.バッハ/弦楽のためのシンフォニア ハ長調
--彼は独創的だ! 彼の作品すべてに、独創的という刻印が押されている(ヨハン・カスパル・ラファーター『観相学の断章』)
C. P. E. バッハの『自叙伝』(1773)には、最新作として「1773 年依頼に応えて6 つの四声のシンフォニアを作曲」との記載がある。これが「弦楽のためのシンフォニア」(Wq. 182, H. 657-662)であり、本日演奏するH. 659 はその第3 曲である。
依頼者のスヴィーテン男爵はバロック楽譜のコレクターであり、また自宅コンサートでこれらの音楽をモーツァルトら当時の音楽家に聴かせ、ウィーン楽友会を設立し、さらには自らも作曲するなど、多数の功績が現在でも知られるオーストリアのアマチュア音楽家である。本業は外交官であり、音楽にとどまらない多彩な教養は、貴族との交渉にも活かされていた。第1 次ポーランド分割(1772)交渉の成功後に作曲を依頼したと考えられる。
「何の制約もなしに、思いのたけ自由に」との要望通り、四声のシンプルな構成ながら、大胆なテーマ・新鮮な和声進行といったC. P. E. バッハらしい仕掛けが緻密に織り込まれている。バロック後の音楽の過渡期に現れた、時に過剰なほどの感情豊かな表現形式は、やがてハイドンやベートーヴェンらに受け継がれてゆくのである。
第 1 楽章:冒頭から強奏のユニゾンで独創的なテーマが奏でられ、その後も疾風怒濤のような旋律が続く。急に弱奏の旋律が一瞬現れたり、突然休止したりする。「ピアノでもハイテンション」(懸田氏談)。冒頭のテーマが再現されたかと思うと、休止なしに第2 楽章に突入する。
第 2 楽章:予想外の減七のドラマティックな和音の強奏から始まる。1 小節の弱奏をはさみ、さらに別の減七の和音が追い打ちをかける(ちなみに冒頭4 小節のバス声部はドイツ音名でB, A, C, H、「バッハのテーマ」である)。その後はヴァイオリンの二重奏とヴィオラの伴奏という三声構成で、半音階を用いた美しい旋律が奏でられる。所々で冒頭の減七の和音が現れ、そのたびに旋律は異なる変化を見せる。
第 3 楽章:ソナタ形式。弱奏と強奏が目まぐるしく入り乱れ、旋律ごとの対比を際立たせている。
(Cb. K.W.)
ハイドン/交響曲第 97 番 ハ長調
交響曲第97 番ハ長調は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1792 年に作曲した交響曲であり、いわゆる「ザロモン・セット」あるいは「ロンドン・セット」と呼ばれる交響曲群の一つに位置づけられる作品である。ハイドンは、彼の音楽家としてのキャリアの長年に渡り仕えてきたエステルハージ家のニコラウス(ミクローシュ)侯爵の死去後、当時ドイツで活躍した興行主であったヨハン・ペーター・ザロモンの招きにより、1791年から1792 年、および1794 年から1795 年にイギリスを訪問している。この折に作曲・初演された第93 番から第104 番の交響曲群が「ザロモン・セット」であり、本作品の他にも交響曲第94 番「驚愕」や第100 番「軍隊」、第104 番「ロンドン」など、現代においてもハイドンの交響曲の中で最も人気のある作品が並ぶ。これらの作品は当時の観客にも非常に熱狂的に受け入れられたという。
交響曲第97 番は、ザロモン・セットの中にあって上述の副題付きの作品と比較すると必ずしも演奏機会に恵まれているとはいえないが、いかにもハイドンらしい創意工夫に満ちた作品である。充実したオーケストレーションで安定感のある構成の中に随所にみられるユーモアと、特に終楽章のジェットコースターのようなスリリングな音楽はさすがであり、ハイドン好きの人にとってもそうでない人にとっても、非常に魅力的な作品である。
第1 楽章:Adagio – Vivace ハ長調 3/4 拍子 序奏付きソナタ形式。緩やかな序奏部の後に、強烈なユニゾンで楽章を貫くテーマが提示される。
第2 楽章:Adagio ma non troppo ヘ長調 4/4 拍子 変奏曲形式(主題と3 つの変奏とコーダ)。途中の変奏で、ヴァイオリンに対し当時としては珍しいal ponticello の指定を付している。
第3 楽章:Menuet. Allegretto ハ長調 3/4 拍子 3 部形式のメヌエット。
第4 楽章:Finale. Presto assai ハ長調 2/4 拍子 ロンド・ソナタ形式。
(Hr. K.S.)
<インタビュー> ゲスト・リーダーの懸田貴嗣さんに聞きました
--今回のプログラムは、ブルーメンにとって新たな領域への挑戦となりますが、意義についてお伺いさせてください。
例えばベートーヴェンを演奏するときに、ベートーヴェンの語法が何なのかということを体系的に知る機会ってなかなかないと思うんです。それを知るためにはその前の時代の音楽を知ることが必要であって、そういう意味で例えばC. P. E. バッハとハイドンというのはベートーヴェンの音楽に非常に大きな影響を及ぼした作曲家ですし、ラモーもC. P. E. バッハもハイドンもそれぞれ独立した作曲家として18世紀においてきわめて重要な作曲家なので、それをきちんと一緒に取り上げるのは、18世紀後半から19世紀前半にかけてのオーケストラの語法を身につける上ですごく大事なことだと思います。
--作曲家の「縦のつながり」を意識したプログラム構成となりましたが、時代を越えた作曲家の関係についてもう少し聞かせていただけますか。
ハイドンは、18世紀当時大バッハよりも有名だったC. P. E. バッハを大変尊敬していて、私はC. P. E. バッハから大きな影響を受けていると自身で語っています。主に中期の「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」といわれている感情表現の激しい作品など、影響は明らかですね。ベートーヴェンはハイドンの弟子でしたが、ハイドンから学んだものは何もないと言ったと伝えられています。しかし例えば交響曲第1番などはハイドンの影響なしには考えられませんし、やはりハイドンの音楽のエッセンスをはっきりと引き継いでいると思います。
--フレンチバロックのラモーの曲が組み込まれているのも今回の演奏会の特徴ですね。
C. P. E. バッハ以前の音楽をやりたかったのです。今年はラモー没後250年のanniversary yearですし、彼の作品の中で「ナイス」の序曲は比較的取り組みやすい曲です。シャコンヌについては、みんなシャコンヌという名前は知っていると思いますが、どんな舞曲かは知らないという人も多いでしょう。そこで、バロック時代のシャコンヌを取り上げたときにみんながどう感じるか、どういう学びをするかというのも面白いと思いました。
--ハイドンの交響曲には懸田さんからの提案でフォルテピアノが加わりましたね。
一連のロンドン・セットでは、フォルテピアノのソロ部分が出てきたり(98番)、初演時にハイドン自身がフォルテピアノを弾きながら通奏低音と指揮を担当したり、とぜひオーケストラの中にいてほしい鍵盤楽器なんです。しかも今回それ以外の曲目はチェンバロが入りますから、2台も通奏低音のための鍵盤楽器を使うという、採算のとれない通常の興行ではありえない(笑)超豪華版です。
--古い時代の曲を演奏するとき、ヴィブラートをかけずに弾くというやり方もありますが、それについてはどのように思われますか。
ノンヴィブラート奏法というのは、ガット弦だからかける必要がないと感じる、もしくは音楽に対して必要ではないと感じるからかけないという内的な動機があるものです。そのような内的必然がなく、単にヴィブラートをかけないで弾くというのは、あまり意味がないと思います。
--西洋音楽の歴史の浅い日本では、今回のような曲目が演奏される機会は必ずしも多くありませんが、ヨーロッパの事情はいかがでしょうか。
ヨーロッパでは、古い音楽とロマン派の音楽は対等にプログラミングされています。その点はやはり西洋音楽の伝統の違いでしょうね。アマチュアのオーケストラは採算にとらわれず冒険できるのだから、古い音楽や現代音楽にどんどん取り組んでいってもよいと思います。
--懸田さんのような古楽の専門家にご指導いただきながら取り組むことができる今回の企画は、ブルーメンが良い方向へ向かうきっかけとなる
有意義な演奏会になりそうです。このたびは貴重なお話をありがとうございました。
2014年12月13日(土)18:30開演(17時45分開場) 第一生命ホール
ゲスト首席チェロ:懸田貴嗣 (指揮者:なし)
- ラモー/歌劇「ナイス」より序曲シャコンヌ
- CPEバッハ/シンフォニア in F Wq.183-3 H.665
- CPEバッハ/シンフォニア in C (Strings) Wq.182-3 H.659
- ハイドン/交響曲97番




