シェーンベルク:室内交響曲第2番 Op.38

 12音音楽の創始者」「現代音楽の父」として知られるシェーンベルクであるが、最近は「浄夜」、「グレの歌」などの後期ロマン派の作風で書かれた作品を中心にポピュラリティを得つつある。
 しかし「月に憑かれたピエロ」や「モーゼとアロン」のような専門家にのみ受けのよい作品が一般聴衆に受け入れられるには、「無調」という大きな障壁があるのでやはり難しいであろう。 どうして彼が調整を放棄し、12音技法を生み出したのか、あえてこの議論はここでは省くことにする。 この問題の思想的背景に言及するにはバッハ以後のドイツ・オーストリア音楽を慎重に考察することが必要不可欠であるからだ。
さて、今日の「室内交響曲第2番」は幸いなことに調性を持った作品である。
いわゆる「後期ロマン派に属していた時期」に書き始められ、幾度もの中断を経て、12音技法を擁立した後の時代に完成した。
この過程を彼のほかの作品、私生活と絡めて見ていきたいと思う。

1899年から1903年にかけて大変官能的な作品を3つ続けて作曲する。 「浄夜」「グレの歌」(オーケストレーション完成は1911年)、「ぺレアスとメリザンド」の3作品で、いずれもワーグナーやR・シュトラウスの影響を受けた後期ロマン派風の大作である。 この時期、彼は師匠ツェムリンスキーの妹、マチルデと結婚している。
1904年、単一楽章で40分かかる「弦楽四重奏曲第1番」を作曲。 この年、ベルクとウェーベルンが弟子入りした。
1906年、あまりにも重要な作品といわれている「室内交響曲第1番」を作曲する。 15人で演奏されるこの作品は、従来の交響曲のような多楽章形態をぐっと圧縮して、単一楽章にその要素を詰め込むという手法で書かれている。 「ペレメリ」と「第1番四重奏曲」で試されたこの手法がここで一応の完成を見たことになる。 一方、ハーモニーの点では「四度和音」と呼ばれる特徴ある響きを用いた(完全四度をいくつか積み重ねた和音で、例えば下からレ・ソ・ド・ファなど)。 ドビュッシーも使っている和音だが、シェーンベルグはドミナント、サブドミナントの代わりにこれを終止形にはめ込み、これによって調性感が希薄になった。
  「第1番」に引き続きいよいよ「室内交響曲第2番」を書き始める。 第1楽章は「第1番」同様、四度和音の多用によって曖昧模糊とした響きの中にほのかなロマンティシズムを漂わせている。 作業は1908年頃まで続くが、第2楽章の途中で筆が止まってしまう。 この中断には諸説があるが、この1908年、シェーンベルク家に大きな事件が起きている。
 実はシェーンベルクは画家でもあった。200点以上の表現主義的作品が残されており、1906年から1912年までの間に集中的に描かれたようである。 ほかの同時代の画家、例えばココシュカ、カンディンスキー等とも親交を温め、互いに影響しあっている。 その中にリヒャルト・ゲルシュトルという若い画家がいた。 彼はシェーンベルクの家族とも親しくなり、「シェーンベルクの家族」と題される作品も残しているが、何とシェーンベルク夫人がゲルシュトルと恋仲になり、家を出てしまうというとんでもない事態に発展してしまった。 結局、友人たちの尽力によって夫人はシェーンベルクのもとに戻ってきたが、ゲルシュトルはこの結果自殺してしまう。 自分の作品を燃やした灰の上で首を吊ったという。 シェーンベルクもこのとき遺書を書いているが、この事件の後彼は何かに憑かれたように絵を描きまくった。
 事件のあった頃彼は「弦楽四重奏曲第2番」を完成させている。 第3、第4楽章でソプラノが加わっているのが外面的に大きな特徴だが、第4楽章でいよいよ無調の世界に踏み込んだのも見逃せない。

 さて「室内交響曲第2番」の方であるが、1911年と1916年に若干書き進められたがまたしても完成できなかった。 このときに曲をメロドラマ(歌わずに語る歌詞の音楽に伴奏がついたもの。「グレの歌」第3部ですでに採用している。)で締めくくるという着想を得たのだが、結局それは破棄された。 ちなみにその詩は「転回点」と題され、「この道をさらに歩むことはできなかった」と始まる。

 1933年ドイツはナチによる暗黒の時代が始まった。 ところでシェーンベルクはユダヤ人である。
当時ベルリンにいた彼は半ば半強制的に国外追放される。 まずフランスに移り、そこでユダヤ教に復帰し、そしてアメリカに向かったのだ。

アメリカ時代のシェーンベルクはすでに手中のものとしている12音技法で作曲するのと同時に「コル・ニドレ」に代表される調的な作品も再び書き始めた。 この時期に、指揮者のフリッツ・シュティードリィーが未完の室内交響曲を完成させるように依頼しに来た。 「室内交響曲第2番」はこれで完成されることになるが、若い頃の様式と、無調、12音技法を経過した当時の様式を見事に止揚した作品に仕上がっている。 しかし、この時期に書かれた第2楽章のコーダは、異常なほどの残虐性を持つカタストロフである。 どうしてここまでする必要があったのであろうか。 忌まわしい過去の事件を思い出したのか、それともヨーロッパで同胞たちに襲いかかる悲劇を思ってのことか。
1939年に完成し、翌年シュティードリーによって初演された。

この後のシェーンベルクの興味は、調性と12音技法の調和、そしてユダヤ人としてのアイデンティティにあったようで、「ナポレオンへの頌歌」、「ワルソーの生き残り」等の名曲を残している。
1951年、死に瀕した彼の最後の言葉は「ハーモニー...」であった。

第1楽章 アダージョ。2/4拍子。変ホ短調。3部形式。
四度和音の多用が印象的な楽章である。 「浄夜」や「ぺレアスとメリザンド」の冒頭の響きにも似た「月明かりの音楽」で始まり、ポーコ・ピウ・モッソの中間部ではロマンティックな旋律が現れるが、パトスに陥るのを慎重な手法で避けている。

第2楽章 コン・フォーコ。 6/8拍子。ト長調。ソナタ形式。
一応ソナタ形式で書かれているが、スケルツォ的性格を持つ。 交錯するリズムと半音階的な動機がソナタ部を支配している。 第1楽章に基づくコーダを持ち、あまりにも生な楽器法がカタストロフを形成する。 最後には地にのめり込んでいくような強烈な下降音型と、変ホ短調の救いようのない絶望的な和音で曲を閉じる。