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過去演奏会のパンフ掲載のコンテンツ。曲目紹介(プログラムノート)、エッセイなど。

第13回定期演奏会プログラムノート

バルトーク:ヴィオラ協奏曲

 作曲者が死によって完成させることのできなかった作品を、弟子や学者が本人に代わって完成させるということは数多い。文学や絵画においては希なこの「補筆完成」という作業は、時に非常な困難を伴う。
バルトークは1945年、ヴィオラ奏者ウィリアム・プリムローズからの依頼でヴィオラ協奏曲を作曲したが、草稿の段階で白血病による死を迎える。 遺された草稿はバラバラの五線紙15枚に走り書きされたままのもので、もちろんオーケストレーションはされていないし、楽章の構成さえもはっきりと判別できるものではなかった。
 この遺稿を判読、補筆完成させたのが、バルトークの弟子で友人の一人、ティボール・シェルイ(1901-1978)である。 彼はやはりバルトークの未完成作品、ピアノ協奏曲第3番を補筆していたが、こちらは最後の十数小節をオーケストレーションするだけの作業だった。 しかし、ヴィオラ協奏曲は上記のような状態で遺されていたので、音符の判読だけにに4ヶ月もかかり、さらに内容を再構成してオーケストレーションを完成させることになった。
完成したスコアを見てみると、テクスチャーの極端に薄い部分が目立つが、バルトークが死の直前にプリムローズに宛てた手紙の「オーケストレーションはかな り透明なものになるでしょう」という一文に拘束されたものである。そしてヴィオラパートは「プリムローズ編」となっているが、プリムローズは演奏効果が上 がるように(難しく)書き換えた部分もあるようだ(このせいで、後のヴィオリスト達は必要以上に苦労することになる)。
 そして1995年、シェルイ版とは別に、ピーター・バルトーク(バルトークの息子)とネルソン・デラマッジョーによる新しい「改訂版」が出版された。 つまりこれからは、モーツァルトの「レクイエム」のように複数のヴァージョンが存在するのである。 今日の演奏はシェルイ版によって行われる。
(バルトークのヴィオラ協奏曲が補筆され、出版されたことの背景には、もちろんバルトークが偉大な作曲家であったことによるが、「ヴィオラ協奏曲」というジャンルの絶対的な曲不足も少なからず影響している。)

第1楽章 Moderato ソナタ形式。アタッカ:
第2楽章 Adagio religioso 変則的な3部形式。アタッカ:
第3楽章 Allegro vivace ロンド形式。

主な未完作品の分類
タイプA:未完の状態のまま演奏されるもの
 J.S.バッハ   フーガの技法
タイプB:途中の楽章(幕)まで演奏されるもの
 マーラー    交響曲第10番 Adagio
 ブルックナー  交響曲第9番
 シェーンベルク 歌劇「モーゼとアロン」(最終幕は台詞のみで上演)
タイプC:他人によって補筆完成されたもの(括弧内は補筆者)
 モーツァルト  レクイエム(ジュスマイアー、バイアー等数種)
 マーラー    交響曲第10番(クック)
 プッチーニ   歌劇「トゥーランドット」(アルファーノ)
 ベルク     歌劇「ルル」(ツェルハ)
バルトーク   ピアノ協奏曲第3番(シェルイ)
バルトーク   ヴィオラ協奏曲(シェルイ、P.バルトーク&デラマッジョーの2種)。

特別演奏会Vol.2~ストリングスの悦楽~プログラムノート

ヴォーン=ウィリアムズ:タリスの主題による幻想曲

 T・タリス(1505~1585)、ダウランド、パーセル、とルネサンスからバロックにかけての隆盛のあと、イギリス作曲界には長い空白時代が訪れていた。
 その後エルガー(1857~1934)、ブリテン(1901~1976)の登場によって、イギリス音楽界は再度沸き返ることになるのだが、この二人のちょうど中間世代に位置するのがヴォーン=ウィリアムズ(1872~1958)である。
 「タリスの主題による幻想曲」は1901年にある音楽祭の為に書かれた弦楽合奏曲で、2つのオーケストラ・グループ(それぞれ別の場所に配置される)とソロ・カルテットの編成により演奏される。 ヴォーン・ウィリアムズは依然よりイギリス讃美歌集の編集を行っており、その中に含まれていたタリス作曲の讃美歌の一遍からこの曲のテーマを得たようだ。
 ノルマン様式の荘厳な協会をイメージした、と作曲家自身が語るように、全体を透明で敬虔な雰囲気が統一しており、主題の性格にもよるのかいくぶん中世的で素朴な香りを残している。
 曲は冒頭、「ハムレット」劇の亡霊の足音を思わせる低弦ピッツィカートによってタリスの主題を準備した後、"幻想曲"という標題が示すようにテーマを自由に展開していく。
 中間、ヴィオラ・ソロに始まるソロ・カルテットから次第に激しさを増していき(この辺の盛り上がりはまさに"悦楽"として取り上げる所以でもある)、三連符を伴う力強いクライマックスを経たあと、徐々に穏やかさを取り戻し、終結へと向かっていく。  ごく小さな編成からなる第二オーケストラは第一オーケストラのエコーの役割を果たしており、その呼応はあたかも聴衆が大聖堂の中にいるような錯覚を生み出すほどの音楽空間を作り出す。
 概してイギリス音楽はドイツ的な起承転結や、ラテン的な情熱に欠ける為、とらえどころがなく、一つ間違えば退屈さに転じる性質を持っている。だがしっかりと耳を傾ければ、この憂愁、静謐なロマンティシズムはほかにとって代えがたいものがある。 イギリスには他にもディーリアス、フィンジなど美しい曲を書いた作曲家が数多く存在する。 今回の演奏をきっかけとして多くの方にイギリス音楽への造詣を深めていただければ幸いである。

第5回演奏会プログラムノート

シェーンベルク:室内交響曲第2番 Op.38

 12音音楽の創始者」「現代音楽の父」として知られるシェーンベルクであるが、最近は「浄夜」、「グレの歌」などの後期ロマン派の作風で書かれた作品を中心にポピュラリティを得つつある。
 しかし「月に憑かれたピエロ」や「モーゼとアロン」のような専門家にのみ受けのよい作品が一般聴衆に受け入れられるには、「無調」という大きな障壁があるのでやはり難しいであろう。 どうして彼が調整を放棄し、12音技法を生み出したのか、あえてこの議論はここでは省くことにする。 この問題の思想的背景に言及するにはバッハ以後のドイツ・オーストリア音楽を慎重に考察することが必要不可欠であるからだ。
さて、今日の「室内交響曲第2番」は幸いなことに調性を持った作品である。
いわゆる「後期ロマン派に属していた時期」に書き始められ、幾度もの中断を経て、12音技法を擁立した後の時代に完成した。
この過程を彼のほかの作品、私生活と絡めて見ていきたいと思う。

1899年から1903年にかけて大変官能的な作品を3つ続けて作曲する。 「浄夜」「グレの歌」(オーケストレーション完成は1911年)、「ぺレアスとメリザンド」の3作品で、いずれもワーグナーやR・シュトラウスの影響を受けた後期ロマン派風の大作である。 この時期、彼は師匠ツェムリンスキーの妹、マチルデと結婚している。
1904年、単一楽章で40分かかる「弦楽四重奏曲第1番」を作曲。 この年、ベルクとウェーベルンが弟子入りした。
1906年、あまりにも重要な作品といわれている「室内交響曲第1番」を作曲する。 15人で演奏されるこの作品は、従来の交響曲のような多楽章形態をぐっと圧縮して、単一楽章にその要素を詰め込むという手法で書かれている。 「ペレメリ」と「第1番四重奏曲」で試されたこの手法がここで一応の完成を見たことになる。 一方、ハーモニーの点では「四度和音」と呼ばれる特徴ある響きを用いた(完全四度をいくつか積み重ねた和音で、例えば下からレ・ソ・ド・ファなど)。 ドビュッシーも使っている和音だが、シェーンベルグはドミナント、サブドミナントの代わりにこれを終止形にはめ込み、これによって調性感が希薄になった。
  「第1番」に引き続きいよいよ「室内交響曲第2番」を書き始める。 第1楽章は「第1番」同様、四度和音の多用によって曖昧模糊とした響きの中にほのかなロマンティシズムを漂わせている。 作業は1908年頃まで続くが、第2楽章の途中で筆が止まってしまう。 この中断には諸説があるが、この1908年、シェーンベルク家に大きな事件が起きている。
 実はシェーンベルクは画家でもあった。200点以上の表現主義的作品が残されており、1906年から1912年までの間に集中的に描かれたようである。 ほかの同時代の画家、例えばココシュカ、カンディンスキー等とも親交を温め、互いに影響しあっている。 その中にリヒャルト・ゲルシュトルという若い画家がいた。 彼はシェーンベルクの家族とも親しくなり、「シェーンベルクの家族」と題される作品も残しているが、何とシェーンベルク夫人がゲルシュトルと恋仲になり、家を出てしまうというとんでもない事態に発展してしまった。 結局、友人たちの尽力によって夫人はシェーンベルクのもとに戻ってきたが、ゲルシュトルはこの結果自殺してしまう。 自分の作品を燃やした灰の上で首を吊ったという。 シェーンベルクもこのとき遺書を書いているが、この事件の後彼は何かに憑かれたように絵を描きまくった。
 事件のあった頃彼は「弦楽四重奏曲第2番」を完成させている。 第3、第4楽章でソプラノが加わっているのが外面的に大きな特徴だが、第4楽章でいよいよ無調の世界に踏み込んだのも見逃せない。

 さて「室内交響曲第2番」の方であるが、1911年と1916年に若干書き進められたがまたしても完成できなかった。 このときに曲をメロドラマ(歌わずに語る歌詞の音楽に伴奏がついたもの。「グレの歌」第3部ですでに採用している。)で締めくくるという着想を得たのだが、結局それは破棄された。 ちなみにその詩は「転回点」と題され、「この道をさらに歩むことはできなかった」と始まる。

 1933年ドイツはナチによる暗黒の時代が始まった。 ところでシェーンベルクはユダヤ人である。
当時ベルリンにいた彼は半ば半強制的に国外追放される。 まずフランスに移り、そこでユダヤ教に復帰し、そしてアメリカに向かったのだ。

アメリカ時代のシェーンベルクはすでに手中のものとしている12音技法で作曲するのと同時に「コル・ニドレ」に代表される調的な作品も再び書き始めた。 この時期に、指揮者のフリッツ・シュティードリィーが未完の室内交響曲を完成させるように依頼しに来た。 「室内交響曲第2番」はこれで完成されることになるが、若い頃の様式と、無調、12音技法を経過した当時の様式を見事に止揚した作品に仕上がっている。 しかし、この時期に書かれた第2楽章のコーダは、異常なほどの残虐性を持つカタストロフである。 どうしてここまでする必要があったのであろうか。 忌まわしい過去の事件を思い出したのか、それともヨーロッパで同胞たちに襲いかかる悲劇を思ってのことか。
1939年に完成し、翌年シュティードリーによって初演された。

この後のシェーンベルクの興味は、調性と12音技法の調和、そしてユダヤ人としてのアイデンティティにあったようで、「ナポレオンへの頌歌」、「ワルソーの生き残り」等の名曲を残している。
1951年、死に瀕した彼の最後の言葉は「ハーモニー...」であった。

第1楽章 アダージョ。2/4拍子。変ホ短調。3部形式。
四度和音の多用が印象的な楽章である。 「浄夜」や「ぺレアスとメリザンド」の冒頭の響きにも似た「月明かりの音楽」で始まり、ポーコ・ピウ・モッソの中間部ではロマンティックな旋律が現れるが、パトスに陥るのを慎重な手法で避けている。

第2楽章 コン・フォーコ。 6/8拍子。ト長調。ソナタ形式。
一応ソナタ形式で書かれているが、スケルツォ的性格を持つ。 交錯するリズムと半音階的な動機がソナタ部を支配している。 第1楽章に基づくコーダを持ち、あまりにも生な楽器法がカタストロフを形成する。 最後には地にのめり込んでいくような強烈な下降音型と、変ホ短調の救いようのない絶望的な和音で曲を閉じる。

 

第2回定期演奏会プログラムノート

メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調「イタリア」  (Vn. M.K)

 メンデルスゾーンは1890年ユダヤ系ドイツ人としてハンブルクの裕福な銀行家の家に生まれ、幼児から本格的な音楽教育を受けその天才ぶりを発揮した。
 この第4番「イタリア」を含め五つの交響曲、演奏会用序曲、たくさんのピアノ作品、室内楽、歌曲、それに何といってもヴァイオリン協奏曲ホ短調など、数々の珠玉のような名曲によって、ショパン、シューマンなどとともに初期ロマンはを代表する作曲家とされている。
 当時はほとんど忘れられていた「マタイ受難曲」を演奏し、19世紀におけるバッハ再評価の気運を作った功績も忘れることはできない。
 さて彼の音楽の特色は、いわば爽やかに匂いたつような、つまりある種の香気に満ちた作風にあるのではないだろうか。 これは、よくいわれるように彼の生い立ちからくるものであるとともに、ロマン主義的内容ないし精神を古典主義的様式で表現していることとも無縁ではないと思われる。
 彼は、20才の1829年から23才の1832年にかけて、イギリスをはじめオーストリア、イタリア、フランスなどを旅し、そのうちローマに30年から翌31年にかけて滞在したが、「イタリア」はこの時書き始められた。 31年に出した手紙には「イタリア交響曲はおおいに進捗している。この作品、特に終楽章のプレスト・アジタートの部分は私の書いた曲の中ではもっとも成熟したものになるだろう。」と述べている。
 そしてロンドン・フィルハーモニー協会からの依頼もあって33年に完成され、同年作曲者自身の指揮の下に初演された。 しかし彼はこの曲の出来栄えに必ずしも満足していなかったらしく、ことに第4楽章については書き直したいとさえ言っていたという。 事実生前には出版もせずドイツでは演奏もしなかった。 結局ドイツでの初演は彼の死から2年後の49年、ライプツィヒのゲヴァントハウスで行われた。

第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ、イ長調、8分の6拍子、ソナタ形式。
 2小節の木管による和音の軽快な刻みに続いてあたかもイタリアの空を思わせるように明るく、踊るような第1主題がヴァイオリンで提示される。この動機は60小節にわたって展開され、さらに50小節余りの経過句の後属調のホ長調の第2主題がクラリネット、ファゴットによって奏される。これがクライマックスに達したのち、第1主題が戻り提示部は終わり、反復される。展開部は提示部の経過句の動機から派生した新しい主題によるフガートで始まり第1主題が再現される。そのクライマックスが一旦静まって後、クレッシェンドしつつ再現部に入り、第1、第2主題が再現される。コーダはピウ・アニマート・ポコ・ア・ポーコとなって第1主題ともう一つの主題が弦と管で交互に提示され、スタッカートの3連音の走句は若々しい朗らかな気分を漲らせつつこの楽章を閉じる。

第2楽章アンダンテ・コン・モート、ニ短調、4分の4拍子。
 行進曲風のリズムの支配するこの緩徐楽章は、彼がナポリで見かけた宗教的行列の印象から着想したといわれる。 まず、冒頭に木管と弦により重々しく哀愁に満ちたフォルテの楽句が示され、オーボエ、ファゴット、ヴィオラによって叙情味豊かな主旋律が奏でられ、さらにそれはフルートの対旋律を持ったヴァイオリンに受け継がれる。 この間バスは、8分音符の重々しい足取りを聞かせている。この楽章の中間部はイ長調となり、クラリネットは対照的な表情を持つ旋律を歌い始める。冒頭の部分がさらに少し形を変えて再現されこの楽章を終わる。

第3楽章コン・モート・モデラート、イ長調、4分の3拍子。
 この楽章はスケルツォではなくメヌエットであるが、単なる美しさを超えた、いわば地中海的優雅さ、明晰さ、あたたかさ、それに香を備えている。 トリオに相当する部分はホ長調となる。

第4楽章サルタレッロ-プレスト、イ短調、4分の4拍子、ロンド形式。
 この終楽章こそは彼が最も力を注ぎ、また苦心した部分で、ローマ地方のダンスであるサルタレッロのリズムによる二つの主題が提示される。 さらに3連音が均等に流れる第3の主題はナポリ地方の舞曲タランテッラのリズムである。

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