ディーリアス 間奏曲「楽園への道」~歌劇「村のロメオとジュリエット」より

 幼なじみの年若い二人が、山中の酒場「楽園」を目指して山道を登っていく。醜い諍いの果てに零落していく両家の陰でひっそりと芽生えた恋を携えて・・。

 歌劇「村のロミオとジュリエット」の英国初演に際し、ディーリアスがこの美しい間奏曲を書き加えたのは1910年のことであった。指揮にあたったトーマ ス・ビーチャム卿はこの曲をことさら愛し、作曲家の死後二管編成に縮小編曲して本日のような管弦楽演奏会でたびたび取り上げている。(ちなみに歌劇は、世 をはかなみ「楽園」を後にした二人が川舟に乗り、常世の国へ旅立つ場面で幕を閉じる。)
 ヴィクトリア朝の英国で富裕な商家に生まれたフレデリック・ディーリアスは、若き遊蕩遍歴の日々ののちアールヌーボーのパリに漂着し、やがて画家で聡明 な妻を得てからは、その半生を郊外の美しい水辺の村グレで作曲の日々に暮らした。形式的常套手段を嫌い、常に自身が感じ取ったものを優先させ、それでもな お彼のスコアのもつ美しさは、往時の音楽学生モーリス・ラヴェルにヴォーカル譜作成を引き受けさせるほどであったという。
 ディーリアスをなぜ好きか。この問いに私は当惑する。彼の作品にはしばしば、耳の官能を満たす甘美な旋律が見られず、特徴ある音型が意志の力により展開 しつくされることもなく、また理知的な導き手となるソナタ形式のような楽式も見当たらないからである。私たちは淡い彩色を施された絵画をのぞき込むように その音楽に立ち会うことになる。そこに見出されるものはうつろいゆく季節や風物の美しさと残酷さ、そしてそれらに感応する力を享けてしまった人間への ディーリアスの深く柔らかな眼差しである。 Man is a mystery; Nature alone is eternally renewing.(人間のことは分からない。ただ自然だけは永遠にめぐり続ける。) とは、その思想の最も深い意味合いにおいてフリードリヒ・ニーチェを敬愛した彼の生前の口癖であった。
 過去に当団でディーリアスの最晩年の作品を取り上げたシーズンでのこと。初めての練習が終わって周囲がさざめき始める中、あるオーボエ奏者がかすかな声 で「ほんとうに美しい音楽だ…」とつぶやいた夕刻の情景を、私は今も幸せな気持ちで思い出す。時が流れ、彼をその席に見ることはなくなったが、そんな小さ な記憶とともに皆と再びディーリアスで演奏会を始められる今を、私はやはり幸せに思う。

 

ラヴェル バレエ音楽「マ・メール・ロワ」全曲 

例えば〝優しい音楽〟とは、と訊かれたら、誰の曲を思い浮かべるだろう。シューベルト? サティ? 少なくともラヴェルを真っ先に挙げる人は多くはなさそうだ。
 しかし、モーリス・ラヴェル(1875-1937)の晩年の弟子・友人であったロザンタールはこう語っている。「ラヴェルのあらゆる音楽には、どんな時 期に書かれたものであろうと、心地よい、無垢な優しさの輝きを見出すことができる」 本当に全部の作品(『スペイン狂詩曲』や『ラ・ヴァルス』や…)が 〝優しい〟のか……、それは分からないが、しかし『マ・メール・ロワ』ならば、多くの人の耳に優しさをもたらしてくれるのではなかろうか。
「マ・メール・ロワ Ma Mere l'Oye」とはフランス語で「がちょうおばさん」、英語でいうところの「マザー・グース」である。つまりは童謡集だ。ご存知のように、原曲は4手のピア ノのための5つの小品を集めたシンプルなものである。無類の子供好きだったラヴェルは、この曲を友人の子2人のために作った。難しい奏法を極力避け、オク ターヴでさえも用いていない。子供たちへと向けられた心の優しさが、ラヴェルにこの曲を書かせたといってよい。童話の一頁一頁をめくるように、一曲一曲、 一音一音が丁寧に作られている。この曲はラヴェルが、演奏する子供たち自身に語り伝えた優しいお伽話なのだ。
 オーケストラ版は原曲の2年後にバレエ音楽として作られた。現在では、もともと在った5曲のみを演奏する「組曲」版と、曲を6つに増やし(順序も少し入れ替わる)前奏曲と4つの間奏曲をも加えた「全曲」版(本日のバレエ版)の両方が演奏されている。
 ラヴェルのオーケストレーションは神業のように美しく完璧である。彼はモチーフの多くを他の作曲家から拝借しているが、出来上がった作品、独特の響き は、ラヴェルその人のものである。彼は「聴衆を惑わす」ことがオーケストレーションだと語る。例えば〈眠りの森の美女のパヴァーヌ〉の冒頭。フルートがメ ロディーを奏でる裏で静かにホルンが対旋律を歌う。これだけでも十分に美しいのだが、ラヴェルはさらに、ホルンの音の中にヴィオラのピチカートを「密か に」加える。するとホルンとは少し違った音色が聞こえてくるわけだが、聴き手にはすぐにヴィオラだとは分からない、という仕組みである。極めて薄い作りで 進められていく『マ・メール・ロワ』だが、実はこのような繊細な技巧がたくさん散りばめられている。だからこそ、シンプルなのにこんなにも優しく魅惑的な 彼の音楽に、私達は引き込まれてしまうのだろう。  


眠りの森の美女のパヴァーヌ

 余談であるが、ラヴェルは、シューマンが、ほとんど白い鍵盤しか使わずにあんなにも人間味のある表現ができたことに、大きな感動を覚えていた。音楽は違えどもそこに共通するある種の〝優しさ〟に、今日は耳を傾けていただけたらと思う。
〈前奏曲〉神秘的な夜明け。遠くから信号ラッパ (ホルン)。後に出てくるモチーフが順に奏されてから曲は一気に高まりを見せ、幕が開ける。
〈紡ぎ車の踊りと情景〉バレエ版のために挿入された曲。『眠りの森の美女』の前半部分である。意地悪な仙女の呪いにより、糸を紡いでいた王女が指に怪我をするシーン。最後のオーボエのカンタービレで王女は気を失い、百年の永い眠りにつく。
〈眠りの森の美女のパヴァーヌ〉イ短調自然音階(エオリア旋法)。簡素で美しい曲。
〈間奏曲〉2人の黒人の子供。王女の眠りを小話で慰めるよう命じられ、劇中劇が始まる。
〈美女と野獣の対話〉まずはワルツによる美女のテーマ(クラリネット)。おどろおどろしい雰囲気に変わり、野獣の登場(コントラファゴット)。曲の後半で は両者が絡み合い、曲の最高潮で野獣は倒れるが、ハープのグリッサンドで野獣は王子に変身する。コクトーの映画を髣髴とさせるような、激的ながらも静かで 端正な音楽。スコアの冒頭には、美女と野獣との会話が書き込まれている。
〈間奏曲〉再び黒人の子供。次の物語への予感。
〈親指小僧〉7人の子供たちが道に迷う物語。末っ子の親指小僧が道しるべにパンを撒いていくが、鳥たちに食べられてしまう。ゆっくりとした変拍子が子供た ちの不安を表す。途中にヴァイオリン、フルート、ピッコロによる小鳥やカッコウの鳴き声も聞こえる。唯一フォルティシモになる箇所は、全曲を通して最も美 しいシーンの一つである。
〈間奏曲〉ハープ、チェレスタ、フルートのカデンツァ。全曲版ならではの聴き所。
〈パゴダの女王リドロネット〉「パゴダ」とは中国の首振り人形。女王がお風呂に入ると、人形達が楽器を弾きながら歌い始める。途中、銅鑼とともに女王の登 場。ここから曲はいっそうの異国情緒を漂わせる。女王も一緒になって踊り、賑やかに曲は終わる。スコアには、元になった『緑の蛇』という童話からの引用が 書かれている。
〈間奏曲〉冒頭の、夜明けの音楽の再現。
〈妖精の園〉森が優しく目覚め始める。王子の登場。音楽が静かに頂点に達したところで夜が明ける。それに続くソロヴァイオリンとチェレスタは王女が目を覚ます姿を表している。最後にはこれまでの全ての登場人物が集まって、輝かしいフィナーレとなる。
                                

シューマン 交響曲第1番「春」 変ロ長調 作品38

1840年、シューマン30歳。この年、シューマンは大きな転機を迎えた。長らく果たせずにいたクララとの結婚が実現したのである。それは、クララの父親 の強硬な反対(妨害)に遭い、裁判にまで持ち込んで、ようやく達成された結婚であった。この結婚の4ヶ月後に、この交響曲第1番「春」は作られた。作成に 要した期間はわずか4日間。ほとんど寝ずに一気に書き上げられたと言われている。
この曲はシューマン自身によって「春の交響曲」と呼ばれ、当初は楽章ごとに「春のはじめ」「黄昏」「楽しい遊び」「春たけなわ」という標題が付けられてい た(出版の段階で削除された)。たしかに、この曲では、随所に、春らしい躍動感と喜びを見出すことができる。冒頭で高らかに鳴り渡るトランペットのファン ファーレは春の訪れを告げているようだし、それに続く序奏は、雪が溶け、木々の芽が芽吹き、花のつぼみが膨らみ、風と陽光が柔らかくなっていく、早春の雰 囲気を表しているようだ。そして、主部は圧倒的な喜びの賛歌。そのうれしそうなことといったら、少し病的な躁状態?と思ってしまうほどである。それに続く 2楽章の優しい詩情に満ちた雰囲気、3楽章の力強さとコケッティッシュさ、4楽章の蝶が戯れているような旋律と悪魔が踊っているような旋律(『クライスレ リアーナ』第8曲の旋律)の交錯……それぞれ、どれも印象的である。しかし、最も印象的なのは、全楽章を通じて見られる、前へ前へと進む駆動力の強さ、テ ンションの高さ、ではないかと思う。執拗に繰り返される付点のリズム、不自然なアクセントなどは、この駆動力やテンションを強めているようだ。ここでの 「春」は、「春眠、暁を覚えず」「ひねもすのたりのたりかな」「ぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ」といった、のどかな、そして、そこはかとない憂いを秘めた 日本の「春」とはだいぶ違う。もっと色彩が鮮やかで、陽光の強い「春」である。
さて、この「交響曲」が作られた重要な背景としては、1839年に発見・初演されたシューベルトの交響曲第9番の影響が挙げられるだろう。確かにシューベ ルトの交響曲第9番「グレート」と、この交響曲第1番「春」は、冒頭の金管の旋律、序奏、主部の雰囲気など、類似点が多い。一方、「春」のインスピレー ション源としては、アドルフ・ベッドガーの「汝、雲の霊よ」という詩が挙げられる。ただし、注意すべきは、ベッドガーの詩が、決して「春らんまん」の詩で はないということである。それは、暗い冬の情景を描いた詩であり、春の描写があるのは、最後の2行だけ、唐突ともいえるかたちで出てくる「おお、変えよ、 おんみの巡りを変えよ ―谷間には春が萌え出ている!」という詩句だけである。1840年に、ゲーテ、ハイネ、リュッケルト、といった詩人の詩に曲を付けて、140曲もの歌曲を 作曲しているように、シューマンは詩に関して非常に深い造詣を持っていた。そのシューマンが、あえて、この無名詩人の詩に強く惹かれたのは、なぜなのだろ うか。
1810年、シューマンは5人兄弟の末っ子として生まれ、家族や近隣の人にかわいがられ、幸せな幼年時代を過ごした。しかし、10代半ばから次々と不幸な 事件に襲われる。16歳のときに姉エミリーリエが自殺。その10ヶ月後に父アウグストが急死。シューマンは激しいショックを受け、この年に最初の精神発作 を起こす。それからは続けざまである。22歳…右手の第三指麻痺(ピアニスト断念)。33歳…兄ユリウスと義姉ロザリエの死、最初の自殺未遂。34歳…親 友シュンケの死。36歳…母ヨハンナの死。38歳…兄エデュアルドの死。このような、たびかさなる肉親の死を経て、シューマンは、病気(例えばコレラ)や 死(例えば自分の自殺)に対して強い恐怖を抱くようになったと言われている。日記や手紙には「これまでお金を使うことぐらいしかしていないのに、今20歳 で死ぬのかと思うと気が狂いそうになります(1831)」「頭への血の逆流、言い表せないほどの神経過敏、息切れ、突然の失神に見舞われます (1833)」「僕はどうなっていくのだろう、死ぬほどのつらさに笑い出したいくらいです(1837)」といった記述も見られる。
そのような精神状態のなか、シューマンは常に依存と愛着の対象を探し、さまよった。とくに恋人には、精神的な支えだけではなく、経済的な支えも求めたよう だ。シューマンは、クララの前に婚約していたエルネスティーネと1836年に婚約を破棄しているが、その理由について、次のように書き送っている。「今こ そ言ってしまうが、医者は優しく慰めて、結婚が唯一の治療法だから結婚したまえ、と勧めたのだ。当時、君(クララ)はまだ子どもから娘への成長期だったの で、僕の眼中にはなかった。ちょうどその時エルネスティーネが現れたのだ。とてもいい娘だった。僕は全力で彼女にしがみつこうとした。だが僕は彼女が貧し いことを知った。僕自身どんなに頑張っても稼ぎが少ないとなると、先行きどうしようもないことが分かった。君は僕を非難するだろうが、僕はそんなことで、 だんだん気持ちが醒めてしまったのだ。エルネスティーネは一文も稼げなかった。僕は母と相談して、彼女と結婚すれば苦労ばかりが増えるだろうということで 意見が一致したのだ(1838)」。このような手紙を悪びれずに書き送るシューマンもすごいし、読んで愛想をつかさないクララもすごい。クララはシューマ ンより9歳年下であったが、すでに一流のピアニストであり、稼ぎもシューマンの比較にならないほど多かった。シューマンがクララに宛てた手紙には「君はす べてにおいて僕より優っている(1838)」「君は最高の尊敬にふさわしい素晴らしい少女だ(1839)」「英雄的な少女はその恋人をも英雄的にします (1839)」という記述もあり、シューマンにとってクララは、年下のかわいい恋人という以上に、経済的にも精神的にも自分を支えてくれる、非常に大きな 存在であったと思われる。
1835年、シューマンとクララは互いを恋人と認識するようになるが、クララの父親はこれに猛反対し、1840年、裁判所で判決が下されるまでの5年間、 常に激しい妨害を続けた。これはシューマンにとって非常なストレスであった。加えて、この頃、クララのピアニストとしての活躍は目覚ましく、演奏旅行で各 地を飛び回るクララに対して、シューマンは焦燥感を募らせている。この時期には「クララはお前のものだ ―お前のものなのだと、僕は思いました。それなのに彼女のところに行って手を握ることもできないのです(1837)」「これが最後になるかもしれません (1837)」「君の婚約の記事を新聞で見ることを想像しました ―床に身体を打ちつけて声をあげて叫びました(1838)」というような不安や焦燥を吐露した手紙が非常に多い。
シューマンにとって、クララはまさに「春」だったのだろう。ベッドガーの詩のラストで詠われる、寒くて暗い冬に終わりを告げる「春」だったのだろう。この 曲には、長い不安の時代を抜けて、ようやく「春」を得ることができたシューマンの喜びが満ちている。この13年後にライン川に身を投げ、その2年後に精神 病院で生涯を閉じるシューマンの、最も幸せだった時期の「春」を、今日、皆様と共有することができれば、幸いである。